教育

2009年12月28日 (月)

孤独について-生きるのが困難な人々へ-

  標記の図書は文藝春秋刊の新書で著者は中島義道という哲学者である。共感すること大であった。断っておくが、現状、僕自身は生きることを困難であるとは少しも思っていないので誤解のないように附記しておく。

 僕自身の感慨を辿れば、生きていくという現象は日常的な煩瑣の連続である点が難儀なのであってそれを措くと人生など存外にも楽しいものである。様々の人生上の躓きを超克し独自の価値体系を確立してしまうと実存的に介入する他者の意見・意向や動向などまったく度外視と化す。基準規範は絶えず自分の裡に在る。他者としての闖入者の尺度に惑溺するから諸事百般に困惑するのだ。釈迦も叙述しているように天上天下唯我独尊の裡に自己は存在すると信じて疑わないだけの自己確立を為すべきだと如実にその思弁の実践を本旨としている。そのために金で片がつく問題はお金で転んでもらい、大切に無関係な論議にはイエスマンに徹しきっているのだ。

 さて、この本では上記のようなことはどこにも書いていないので現在進行形で苦悩する人に対しての慰撫にはならない。他者、読者、著者自身さえも冷厳と突き放している点において、冷淡であり、やさしさとか甘え、慰めを恃んで頁を開いたら忽ち絶望の奈落へと真っ逆さまに墜ちてゆく。一歩間違えば退廃、穎退に堕する可能性も胚胎しているがその点を了解していれば本書は心地よいばかりかその冷徹さにおいて胸がすく想いがするのである。

 死を前提とする限り諸般のフェノメノンが無意味であると説いたのがこの本の本当なのである。なおかつ、その言説は正鵠を射ているので本当という尺度においてなおさらにも本当なのである。絶対とは死のことなのでありその当事者は自分であることはシンプルなプリンシプルである。そうした単純なことを再確認させてくれる図書であり心に残る大切な一冊となった。嫌味ではなく佳書であった。ただし、僕にとっては・・・と附言しておく。世故の常識に律動する人には不向きの本である。

 また、著者は東大を卒業して以降、大学教員の職に就くまでの苦難に満ちた歴程も能く綴られており冷徹なまでの孤独論と相俟ってそこから紡ぎ出される物語にはスパイラルな構造の滲みがみてとれる。教員としての初任先は帝京平成大学。が、そこで収まる狭量ではなく本書初版の時点での肩書は電通大教授となっている。著者が何処の大学教授であろうと僕の人生には何等の意味も持たないのだが著書には大きく心を動かされた。

| | コメント (0)

2009年12月27日 (日)

人生の鍛錬-小林秀雄の言葉-

 標記に識した本は新潮社刊で新書の体裁をとる小林の箴言集である。尤も、小林は箴言集を編んでいないので様々な著書から抜粋した寸鉄のような言葉を集めた内容となっている。難解というよりも、寧ろ、本の構成のほうに無理がある。

 小林秀雄の著書はその全体から何かしらの知見を汲み取るべきであり、一部分を抜粋してきて、さぁ、読めといわれても理解できるはずがない。要するに小林秀雄の思想は切り貼りができない形式になっているのだ。

 国語学者の大野晋や井上ひさしは、小林秀雄の文章を大学入試の国語読解問題に出題しないよう強く提言している。曰く。「ロジックに飛躍が多いので、受験生の読解力を測る尺度としては不適」というのがその理由である。そんな小林の著書をズタズタに切り抜いた言葉など理解できるはずがない。もちろん、僕の読解力不足の拙劣を棚上げするつもりはないが読んでいたら何が何だかさっぱり解らず頭が痛くなってきた。shock

| | コメント (0)

2009年12月25日 (金)

医者嫌いな養老孟司先生

 3,000人の医師を育ててきたという。オレが育てた医者なんて信用できるか・・・と言うのが養老孟司が医者嫌いの理由の一つなのだそうである。唯脳にも諧調在り。

| | コメント (0)

2009年12月19日 (土)

語る養老孟司と書く養老孟司の重層性

  それをパッシブに表現すると「聴く養老孟司」と「読む養老孟司」ということになる。養老の本は読んでいて気持ちがよいほどにストンと胸に落ちるのは当たり前のことを当たり前に叙述しているからである。

 一方、養老の話(語り)は一向に理解ができない。その思考はおそらく一つの思想であると思えるのだが、声によって表層される内容と文字によって具象される内容に差異はないにもかかわらず音声として表層化されると途端に理解不能となる。

 おそらく僕には聴く習慣が形成されてないのだ。聴いて理解するという部分での脳野が弱いのである。また、聴いていても意識が別の方向に一瞬飛んでいる。そのため、落語をCDにおいて聴いている時も一回聴いただけでは理解ができない。二度聴いて、なるほど、と理解できる。聴く力をもう少し涵養しなくてはならないと感じることもある。

 人はおそらく読む力よりも聴く力のほうが一般的に弱いのではないかと想いつつも特段、僕の聴く力は弱い。換言すれば、聴くことに関しての集中力がない。多分、発せられる言葉には興味がない所以なのかもしれない。

 極論すると、「あの人、なにか一所懸命にペラペラと喋って自己主張しているんだな」という形式を観察をしている自分に気づくことがある。それにしても喋りというのは、つくづくと迷惑を伴う自己主張だなと思う。喋ることは、発語された時点で直ちに音声化されるために雑音になることもある。他方、読むという行為は朗読を別にして音声を伴わない点で非干渉的である。

 以下余談。北杜夫がなだいなだを指して曰く。「なだいなだは医学生の頃、講義を聴いているだけで理解し憶えてしまうので試験勉強というのをしたことがない」と。高度に論理的な話を聴いて理解できる人は賢い人である。僕などは、読んで、まとめて、書いて、朗読し、書いて書いて書いて殴り書きに書いて手に覚えさせないと到底試験には及第しなかった。

| | コメント (2)

2009年12月18日 (金)

今朝、アルボムッレ・スマナサーラがラジオ深夜便に出演していたのに・・・

 聴き逃した。痛恨事・迂闊。その極みである。

| | コメント (0)

2009年12月17日 (木)

或いはNHKにおいて最大にして最良の番組

 それはラジオ体操である。

| | コメント (0)

2009年12月16日 (水)

国語学者大野晋の評伝に魅了された

 【孤高 国語学者大野晋の生涯 川村二郎著 東京書籍刊】を読んだ。司馬遼太郎をして「抜き身の刀」と呼ばしめた学者の評伝である。読みやすいうえに佳書である。本書は忘れえぬ一冊として深く胸中に刻印され、大野晋の類書にあたる必要性を強く感じた。

| | コメント (0)

2009年12月14日 (月)

桂歌丸と√

 桂歌丸の人生において√の概念を無意味とするのはただしく在る。しかし、√のない世界で歌丸が今生を生きて往くことはできないのも事実である。

| | コメント (0)

2009年12月13日 (日)

日本一の座に登り詰めた元上司に強いオーラを感じた

 獣医師の世界ではそれぞれの分野で職域を形成している。そんななか、昨年度仕えていた上司が自身所属する職能集団において全国の会長職に就任した。これはなんとも嬉しい話であり目出度さの極みなのである。

 壇上から日本中の会員を見おろす視線は、威厳のなかにも職を一つにし労苦する者への慈愛が感じられた。こういう人と一緒に仕事ができたことを誇りとしたい。また、この人の名称の入った感謝状を戴けるという僥倖と栄に浴することができたのでその書面は高く自室に掲げてある。氏。自ずから品格のふうが在り。

| | コメント (0)

2009年12月12日 (土)

最近の紀伊国屋書店の無粋-昨今の世情から経営が苦しいのは理解できる-

 紀伊国屋書店は制服を廃止した。制服見たさに紀伊国屋書店に本を買いにゆくわけではないが懇意にしている女子書店員の嘆息する声を聴いて、制服の手当にも困窮するほど経営が苦しいのだなと知る。

 制服ごときで上のような印象を読書子に植え付けてもつまらないと思う。凋落傾向の書店に佳書が常備されているはずもなく、現実に地方に展開している紀伊国屋で用意している書物のラインナップは確実に低下しているように思えてならない。であるからこそ、売場面積で勝負している初羅句を図書購入の専らとしているのである。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧