死ぬという大事な仕事が残っている
死という最後の仕事を立派に努めあげたい。そこに人間の誇りがある。【がん哲学外来の著者で病理医の樋野興夫】の言葉として深く胸に刻んだ。この文脈において、よく生きることはよく死ぬことだという言説が、にわかに、真実味を帯びてくる。
死という最後の仕事を立派に努めあげたい。そこに人間の誇りがある。【がん哲学外来の著者で病理医の樋野興夫】の言葉として深く胸に刻んだ。この文脈において、よく生きることはよく死ぬことだという言説が、にわかに、真実味を帯びてくる。
【新谷尚紀著 青春出版社刊】による本である。青春出版社と言えば「試験に出る英単語(シケ単)とか(デル単)」で大変お世話になった。それにしても「赤尾の豆単」なんて今の受験生は使っているのかしら。
不思議な構成を為している本である。小学生でも読めるようなサラリ~サラリ~とした一節を綴り乍らも民俗学の理念のような話になると滔々と専門書並に深い考察を為されている。この人は単なる好事家ではなく民俗学の基本ができていると思ったら国立民俗博物館の教授の任に在ったことを知り得心した。
青春出版社の新書など安逸なものだと考え書店の書架を素通りしてきた。なかなかの佳書を出版しているようなので、今後、注目してゆきたく思うのである。
朝焼小焼だ大漁だ
大羽鰯の大漁だ
浜は祭りのようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらいするだろう(金子みすゞ 大漁)
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クリスマスという行事は鶏にとって受難であることだな。
鶏の弔いは誰が執行するんだろう。
食用に饗される動物の命の意義を充分に考えもせず僕は
鶏肉も喰らう。
動物における労働の提供が、そのまま命の提供であるとしたら
それはそれで重い現実が在る。
http://www.syoraku.co.jp/link/link_information.html#fair
当日は仕事があってゆけないのは残念なのである。
以下に示したようなことが今現在においても理解できないのだ。
疑問① 0というのは厳密にいうと数値なのであろうか。絶対無の0という記号は数値なのか。絶対に存在しないものには名称がつくのはおかしい。0と無を等式で結ぶことの当否。
疑問② 0に加算すると0+1というふうに1が発生することは理路である。しかし、絶対無としての0から1を減じることの可能性の当否。
主たる疑問を上掲した。数学というか算数はわからないことばかりである。さらにまた、-1×-1が+1の等式で結ばれることも理解できない。そういう決まり事なのであれば、だれが、なぜ、そう決めたのかを是非にとも知りたいのだ。
0を発見したのはインド人である。岸本葉子さんは、0の発見が、それほど、優れた発見なのかと疑問を呈していたが、0の発見は無常観をあらわした仏陀を生んだ国であればこその発見でありその意義はやはり大であると思うのである。
なお、観念(思想)で在る数学が、現象としての物理学と相同性をもつことが不思議でならないのだ。
標記に掲げた【東京骨灰紀行 小沢信男著 筑摩書房】を読んだ。齢80歳を超す碩学の綴った文章は読みにくいこと夥しく典型的な悪文である。しかし、老いたればこそ、枯淡の風を示し乍らも、その吟行にも似た文章の一つ一つが興として充分に堪能できるの意が撥ねており何物にも束縛されない言葉の自由律を感得できるのだ。
日本史を俯瞰する時、応仁の乱などで果てた亡者の骨が京都において大量に埋没しているのは当然のことわりである。同様に、徳川幕府の江戸開府以来、東京にも、嘗て、生の歴程を識した亡者の骨がたくさん埋没しているのも、亦、当然のことわりなのだ。小伝馬町・小塚っ原・鈴ヶ森の刑場。回向院など。多くの呻吟・苦悩・痛み・恐怖を超えて今、静かに骨として在るのだ。また、寧ろ、何処を探しても骨しかないのだ。
そういうケの場所を好んで廻った紀行文は従来において多くは存在しなかったように思う。或いはまた、老者が死と向き合おうとする時、こうした旅を濾紙とし乍ら自分の歴程を重層的に俯瞰する死迎の準備作の有用性も理路的であるとも思えたのだ。
スナマサーラの代表作と称される【怒らないこと 役立つ初期仏教法話1 サンガ新書】を読んだ。この本は、スマナサーラ入門書というべき立ち位置にあり、あらためて刮目するほどの知見は見いだせなかった。だいいち、僕は、本のタイトルに「役立つ」と表記されているだけでげんなりしてくるのだ。役に立たない本がよろし。
この一連の法話シリーズからはなにも汲み取ろうとは思っていない。しかし、標記に掲げた人物たちとの対談集は読み応えがありそうなので強い興味をおぼえる。彼らの思考の癖のようなものを僕は理解している。それに対してスマナサーラがどのように反応しているかについて関心を大きく喚起されるのだ。
僕は妖怪に興味がある。妖怪に係わる学問的定義づけを柳田国男が為しているほど妖怪と民俗学は不即不離の関係にある。東洋大学を創設した井上円了はもちろんのこと、小松和彦を経て妖怪の学問化は一応の体裁が整った感がある。学問的方法論の妥当性は別としても妖怪を広く国民に膾炙した水木の功績は大きい。
【妖怪天国 水木しげる著 筑摩書房】を読んだ。水木の妖怪に対する篤い想いや妖怪へと逢着した経緯は従前から水木が述べているのだが、その精神史が綴れた本は比較的少ないように感じていた。左のような状況から水木が自己を洞察した一冊として極めて心強い一冊である。
また、水木は学問的考察にたえうるだけの多岐多岐なる幅員を確保しているため、その精神史をみてゆくことに対して興奮さえおぼえる。大学院博士課程レベルで考究されても不思議ではない価値の高いマテリアルである。
NHKの朝の連ドラでは、「ゲゲゲの女房」を放映予定としているとか。同名の書籍は装幀が特段に優れて美しい仕上がりをみせている。
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