肥満外科の当否
http://www.med.oita-u.ac.jp/surgery1/dt/index1.html#q2
オペは最終手段だと思えた。そういう診療科があることに驚きの念を感じる。
【養老先生と遊ぶ-養老孟司まるごと1冊- 新潮社】を読んだ。養老の私生活について就いて過剰なまでに叙述が為されているので人間養老孟司を理解するうえで参考となった。この本で養老は自分自身を解剖してしまったのである。
養老の現在に至る歴程を支えているものは亡父という非存在であることを知った。煎じ詰めるところ、解剖学に覚明したのも、唯脳論に逢着したのも皆、亡父の呪縛を由縁とするように思えた。
また、ギャグ漫画のがきデカを愛好しているとは知らなんだ。これに就いては、嘗てより、事ある毎にがきデカの主人公こまわりくんを記事として俎上に載せてきたことに我が意を得たりの感を抱くのである。
知性では比較するのも馬鹿馬鹿しいほど以遠な養老先生であるが、中島みゆきや漫画家高橋留美子が好きだったりと感覚の角度が僕と同じ方向を向いている部分も在る。また、ご息女の暁花さんによれば暇な時は日がな一日パソコンゲームをしているというのである。また、かぼちゃとサツマイモは嫌いらしい。
仕事の部分を含めて些少乍らも類似性があるようなので僕は養老孟司の叙述に好感を持つのである。が、養老のような思考を持つ人と一緒に何かをするのも大変だろうなと思う。何かとは、要するに仕事のことである。
仮に、養老が僕と性格的に似ていると仮定すると養老は、たいそう迷惑な一面も併せ持つ人ということになるので声高には相同性は主張しないでおく。養老のことは一端措いて僕のことでも書く。
僕は迷惑というか周囲を困惑させる存在在(存在ではなく存在在)である。僕と係わった人は不幸だなと感じることが多い。大抵の人が僕を前にして途方に暮れるのは、正味、現実なのである。それが偉いわけでなく奇を衒っている訳でもないのだが事実なのであるから仕方がない。要するに、僕は感覚的な振幅が絶対的多数の正しい人たちと多少ずれているようなのである。
皆と似たような価値観に尺度を変更するべく努力した。せめて協調性だけでも身につけたいと思った。そしたら、狂った。これはイカンと思ったので皆に馴染むことを止めたら最低の正気だけは戻ってきた。しかしである。メンタリティに就いて厳密に精査すると僕は人格障害のカテゴリーのどれかには必ず該当するはずである。それをまったく恥としないことを以て一つの壁を僕は超克した。僕は馬鹿の壁を周囲に張り巡らせて僕側のほうに引き籠もって僕なりの価値観を肯定した。壁を隔てて僕と反対側にいる人が世故でいうところの圧倒的多数の正常人である。でも、僕に言わせれば僕と反対側にいる人は皆がバカなのである。養老流に言えばそういうことになるのである。
井上ひさしさん、肺がん公表
12月16日3時15分配信 読売新聞
劇作家の井上ひさしさん(75)が肺がんで闘病中であることが15日、分かった。同日、都内で行われた日本芸術院新会員の辞令伝達式に代理出席した家族が明らかにした。
井上さんは10月末に肺がんが判明。11月上旬から抗がん剤治療を受けている。経過は良好で、治療が終了する来春には、新作戯曲の執筆を開始するという。
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特に農業に対する発信は極めて重いものがある。
それは物理的に苦手なのである。喋るという当為は一瞬にして、瞬く間に、言葉を選択しロジックを形成し発語してゆく作業である。特に対話が苦手である。果断、相手の論旨を要約し応答してゆく作業は面倒くさいのだ。
それをパッシブに表現すると「聴く養老孟司」と「読む養老孟司」ということになる。養老の本は読んでいて気持ちがよいほどにストンと胸に落ちるのは当たり前のことを当たり前に叙述しているからである。
一方、養老の話(語り)は一向に理解ができない。その思考はおそらく一つの思想であると思えるのだが、声によって表層される内容と文字によって具象される内容に差異はないにもかかわらず音声として表層化されると途端に理解不能となる。
おそらく僕には聴く習慣が形成されてないのだ。聴いて理解するという部分での脳野が弱いのである。また、聴いていても意識が別の方向に一瞬飛んでいる。そのため、落語をCDにおいて聴いている時も一回聴いただけでは理解ができない。二度聴いて、なるほど、と理解できる。聴く力をもう少し涵養しなくてはならないと感じることもある。
人はおそらく読む力よりも聴く力のほうが一般的に弱いのではないかと想いつつも特段、僕の聴く力は弱い。換言すれば、聴くことに関しての集中力がない。多分、発せられる言葉には興味がない所以なのかもしれない。
極論すると、「あの人、なにか一所懸命にペラペラと喋って自己主張しているんだな」という形式を観察をしている自分に気づくことがある。それにしても喋りというのは、つくづくと迷惑を伴う自己主張だなと思う。喋ることは、発語された時点で直ちに音声化されるために雑音になることもある。他方、読むという行為は朗読を別にして音声を伴わない点で非干渉的である。
以下余談。北杜夫がなだいなだを指して曰く。「なだいなだは医学生の頃、講義を聴いているだけで理解し憶えてしまうので試験勉強というのをしたことがない」と。高度に論理的な話を聴いて理解できる人は賢い人である。僕などは、読んで、まとめて、書いて、朗読し、書いて書いて書いて殴り書きに書いて手に覚えさせないと到底試験には及第しなかった。
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