養老孟司先生に遊んでもらった-僕自身の遊びとしての叙述-
【養老先生と遊ぶ-養老孟司まるごと1冊- 新潮社】を読んだ。養老の私生活について就いて過剰なまでに叙述が為されているので人間養老孟司を理解するうえで参考となった。この本で養老は自分自身を解剖してしまったのである。
養老の現在に至る歴程を支えているものは亡父という非存在であることを知った。煎じ詰めるところ、解剖学に覚明したのも、唯脳論に逢着したのも皆、亡父の呪縛を由縁とするように思えた。
また、ギャグ漫画のがきデカを愛好しているとは知らなんだ。これに就いては、嘗てより、事ある毎にがきデカの主人公こまわりくんを記事として俎上に載せてきたことに我が意を得たりの感を抱くのである。
知性では比較するのも馬鹿馬鹿しいほど以遠な養老先生であるが、中島みゆきや漫画家高橋留美子が好きだったりと感覚の角度が僕と同じ方向を向いている部分も在る。また、ご息女の暁花さんによれば暇な時は日がな一日パソコンゲームをしているというのである。また、かぼちゃとサツマイモは嫌いらしい。
仕事の部分を含めて些少乍らも類似性があるようなので僕は養老孟司の叙述に好感を持つのである。が、養老のような思考を持つ人と一緒に何かをするのも大変だろうなと思う。何かとは、要するに仕事のことである。
仮に、養老が僕と性格的に似ていると仮定すると養老は、たいそう迷惑な一面も併せ持つ人ということになるので声高には相同性は主張しないでおく。養老のことは一端措いて僕のことでも書く。
僕は迷惑というか周囲を困惑させる存在在(存在ではなく存在在)である。僕と係わった人は不幸だなと感じることが多い。大抵の人が僕を前にして途方に暮れるのは、正味、現実なのである。それが偉いわけでなく奇を衒っている訳でもないのだが事実なのであるから仕方がない。要するに、僕は感覚的な振幅が絶対的多数の正しい人たちと多少ずれているようなのである。
皆と似たような価値観に尺度を変更するべく努力した。せめて協調性だけでも身につけたいと思った。そしたら、狂った。これはイカンと思ったので皆に馴染むことを止めたら最低の正気だけは戻ってきた。しかしである。メンタリティに就いて厳密に精査すると僕は人格障害のカテゴリーのどれかには必ず該当するはずである。それをまったく恥としないことを以て一つの壁を僕は超克した。僕は馬鹿の壁を周囲に張り巡らせて僕側のほうに引き籠もって僕なりの価値観を肯定した。壁を隔てて僕と反対側にいる人が世故でいうところの圧倒的多数の正常人である。でも、僕に言わせれば僕と反対側にいる人は皆がバカなのである。養老流に言えばそういうことになるのである。


最近のコメント