学問・資格

2009年12月20日 (日)

養老孟司先生に遊んでもらった-僕自身の遊びとしての叙述-

 【養老先生と遊ぶ-養老孟司まるごと1冊- 新潮社】を読んだ。養老の私生活について就いて過剰なまでに叙述が為されているので人間養老孟司を理解するうえで参考となった。この本で養老は自分自身を解剖してしまったのである。

 養老の現在に至る歴程を支えているものは亡父という非存在であることを知った。煎じ詰めるところ、解剖学に覚明したのも、唯脳論に逢着したのも皆、亡父の呪縛を由縁とするように思えた。

 また、ギャグ漫画のがきデカを愛好しているとは知らなんだ。これに就いては、嘗てより、事ある毎にがきデカの主人公こまわりくんを記事として俎上に載せてきたことに我が意を得たりの感を抱くのである。

 知性では比較するのも馬鹿馬鹿しいほど以遠な養老先生であるが、中島みゆきや漫画家高橋留美子が好きだったりと感覚の角度が僕と同じ方向を向いている部分も在る。また、ご息女の暁花さんによれば暇な時は日がな一日パソコンゲームをしているというのである。また、かぼちゃとサツマイモは嫌いらしい。

 仕事の部分を含めて些少乍らも類似性があるようなので僕は養老孟司の叙述に好感を持つのである。が、養老のような思考を持つ人と一緒に何かをするのも大変だろうなと思う。何かとは、要するに仕事のことである。

 仮に、養老が僕と性格的に似ていると仮定すると養老は、たいそう迷惑な一面も併せ持つ人ということになるので声高には相同性は主張しないでおく。養老のことは一端措いて僕のことでも書く。

 僕は迷惑というか周囲を困惑させる存在在(存在ではなく存在在)である。僕と係わった人は不幸だなと感じることが多い。大抵の人が僕を前にして途方に暮れるのは、正味、現実なのである。それが偉いわけでなく奇を衒っている訳でもないのだが事実なのであるから仕方がない。要するに、僕は感覚的な振幅が絶対的多数の正しい人たちと多少ずれているようなのである。

 皆と似たような価値観に尺度を変更するべく努力した。せめて協調性だけでも身につけたいと思った。そしたら、狂った。これはイカンと思ったので皆に馴染むことを止めたら最低の正気だけは戻ってきた。しかしである。メンタリティに就いて厳密に精査すると僕は人格障害のカテゴリーのどれかには必ず該当するはずである。それをまったく恥としないことを以て一つの壁を僕は超克した。僕は馬鹿の壁を周囲に張り巡らせて僕側のほうに引き籠もって僕なりの価値観を肯定した。壁を隔てて僕と反対側にいる人が世故でいうところの圧倒的多数の正常人である。でも、僕に言わせれば僕と反対側にいる人は皆がバカなのである。養老流に言えばそういうことになるのである。

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2009年12月19日 (土)

語る養老孟司と書く養老孟司の重層性

  それをパッシブに表現すると「聴く養老孟司」と「読む養老孟司」ということになる。養老の本は読んでいて気持ちがよいほどにストンと胸に落ちるのは当たり前のことを当たり前に叙述しているからである。

 一方、養老の話(語り)は一向に理解ができない。その思考はおそらく一つの思想であると思えるのだが、声によって表層される内容と文字によって具象される内容に差異はないにもかかわらず音声として表層化されると途端に理解不能となる。

 おそらく僕には聴く習慣が形成されてないのだ。聴いて理解するという部分での脳野が弱いのである。また、聴いていても意識が別の方向に一瞬飛んでいる。そのため、落語をCDにおいて聴いている時も一回聴いただけでは理解ができない。二度聴いて、なるほど、と理解できる。聴く力をもう少し涵養しなくてはならないと感じることもある。

 人はおそらく読む力よりも聴く力のほうが一般的に弱いのではないかと想いつつも特段、僕の聴く力は弱い。換言すれば、聴くことに関しての集中力がない。多分、発せられる言葉には興味がない所以なのかもしれない。

 極論すると、「あの人、なにか一所懸命にペラペラと喋って自己主張しているんだな」という形式を観察をしている自分に気づくことがある。それにしても喋りというのは、つくづくと迷惑を伴う自己主張だなと思う。喋ることは、発語された時点で直ちに音声化されるために雑音になることもある。他方、読むという行為は朗読を別にして音声を伴わない点で非干渉的である。

 以下余談。北杜夫がなだいなだを指して曰く。「なだいなだは医学生の頃、講義を聴いているだけで理解し憶えてしまうので試験勉強というのをしたことがない」と。高度に論理的な話を聴いて理解できる人は賢い人である。僕などは、読んで、まとめて、書いて、朗読し、書いて書いて書いて殴り書きに書いて手に覚えさせないと到底試験には及第しなかった。

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2009年12月18日 (金)

スマナサーラの講話を聴ける機会があるのだが・・・

http://www.syoraku.co.jp/link/link_information.html#fair

当日は仕事があってゆけないのは残念なのである。

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今朝、アルボムッレ・スマナサーラがラジオ深夜便に出演していたのに・・・

 聴き逃した。痛恨事・迂闊。その極みである。

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縛られた巨人-南方熊楠の生涯-という佳書

 曰く因縁の本である。この本は、文庫になるまえにも購入し単行本として所有していた。ところが、タイトル名と装幀の悪さから読まないで処分してしまった。今般、それを文庫として購入して読んでみた。

 しかし、何故、熊楠の生涯に「縛られた」という寓意させる表記が為されることがよくわからないのだ。それは別にしても神坂次郎という人は識眼を持ち、綴る文章にも品格があり一流の手練れである。熊楠の評伝に関してはこの本を定本としたくなるような一冊であった。改めて南方熊楠に惚れ込んだ。

 読書体験は触発が触発を生む。熊楠を考える時、紀州は大きな存在として迫りきて中上健次にも必ずや触れておかなくてはいけないなと思う。突然にも紀州にゆきたくなった。否、三度目の紀州には必ずやゆくのだ。

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2009年12月17日 (木)

新幹線、国道1号線を走る-N700系陸送を支える男達の哲学-という本の凄さ

 【梅原 淳 東良美季著 交通新聞新書】からなる本である。統合的なシステムの構築を考える時、こういう図書は鉄道ファンならずとも参考になり興味深い一冊であった。

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2009年12月16日 (水)

国語学者大野晋の評伝に魅了された

 【孤高 国語学者大野晋の生涯 川村二郎著 東京書籍刊】を読んだ。司馬遼太郎をして「抜き身の刀」と呼ばしめた学者の評伝である。読みやすいうえに佳書である。本書は忘れえぬ一冊として深く胸中に刻印され、大野晋の類書にあたる必要性を強く感じた。

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2009年12月14日 (月)

桂歌丸と√

 桂歌丸の人生において√の概念を無意味とするのはただしく在る。しかし、√のない世界で歌丸が今生を生きて往くことはできないのも事実である。

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2009年12月13日 (日)

日本一の座に登り詰めた元上司に強いオーラを感じた

 獣医師の世界ではそれぞれの分野で職域を形成している。そんななか、昨年度仕えていた上司が自身所属する職能集団において全国の会長職に就任した。これはなんとも嬉しい話であり目出度さの極みなのである。

 壇上から日本中の会員を見おろす視線は、威厳のなかにも職を一つにし労苦する者への慈愛が感じられた。こういう人と一緒に仕事ができたことを誇りとしたい。また、この人の名称の入った感謝状を戴けるという僥倖と栄に浴することができたのでその書面は高く自室に掲げてある。氏。自ずから品格のふうが在り。

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戦争を請負う会社が存在する

  【戦争請負会社p・W・シンガー著 山崎 淳 訳 NHK出版】を読んだ。著者は米ブルッキングス研究所国家安全保障問題研究員であり本書はアメリカ政治学協会から2003年最優秀政治学図書としてグラディス・M・カメラー賞に選定されている。また、訳出をおこなった山崎の訳はBBCの日本語放送のように端正である。

 米国には戦争請負会社というものが存在していることは知っていた。しかもそれは合法的な企業活動の体を為しているのである。本書は、その跳梁にまつわる具体的事例を挙げ乍らも政治学者らしく極めて深遠な考察をおこなっている。それもそのはずで著者は本書を研究書として位置づけている。

 世故に疎いことこそ僕の第一の徳目であると信じているが故に国際政治の分野などはもっとも不得手な分野なのであるが、難解で読みこなせないという質の本ではない。集中力と忍耐力があれば読みこなせる。最大の讃辞をおくりたい一冊であり力作である。

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