アニメ・コミック

2009年12月14日 (月)

痴漢に遭遇することも在る江戸期に生きた或る娘さんの気っ風-ふてえ野郎だ-

  【百日紅(上)杉浦日向子著 ちくま文庫】を読んだ。江戸期の女性の威勢を伝える一節があり胸がすくような叙述であるため転載しておく。

 尻を触られ江戸娘が曰く。「てめえらごときに慰まるるような女じゃアねえよ。こんどやりやがったらきんたまにぎりつぶすぞ」と。

 杉浦が早々と隠居と称して筆を折ったのには相応の理由がある。それは懸命を賭し闘病に専念するためであった。その所以を知らないであろうがゆえに解説において夢枕 獏は杉浦が、再度、筆を執るよう招請している。亡き杉浦を思う時、夢枕も夢見が悪いに違いない。

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2009年11月18日 (水)

手塚治虫の獣医学観

 手塚治虫がどのような獣医師観を持っていようと僕には関係ないので右に示した記事を書く意味は何もないのであるが書いてしまったのでアップすることとした。手塚を本気で詰責しようなどとは思っていない旨を冒頭に識す。要するに冗談の範囲として収納される些末な記事として綴る。問責するとしたらこういうふうな切っ先になるのかなという程度の思考的想定である。以下・・・。

 手塚は獣医学が展開している広汎性を知らず獣医師をみる姿勢は傲慢で偏頗である。獣医学はなにもひとつ小動物臨床だけで成立しているものではないと知れ。獣医学は集学的な知とスキルに依って独自で専権的な職域をカバーしておりそれは地球環境の問題を視野に捉えた複合の学として確乎たる位相を獲得している実績がある。

 臨床医学と対比する時、臨床獣医学は如何にも見劣りがするかも知れない。が、以前にも書いたが獣医学と医学はまったき異なる事象での体験なのである。殊、小動物臨床の分野に特化して医学と獣医学を比較する合目的必要性がまったく見当たらないのだ。

 寧ろ、医学と獣医学は相互の立場を尊重し人畜共通感染症の撲滅を目的として公衆衛生学的立場から緊密に連携してゆくほうがポジティブである。また、学問は対象や体系の比較においてその一方的優位性を論じる態度は非生産的であり、なおかつ、すべての学問は人に寄与するものであることを知れ。

 偏差値とか社会的地位という文脈から、手塚が獣医学や獣医師を捉えるならば、それはそれでよいのだ。そうした観点から俯瞰すれば医学部のほうが余程に上等で偉いのだ。医学部を頂点として、殊、生命科学の分野はビラミッド構造のヒエラルキーを構築しているのは事実であるがその構造的認識そのものが差別的であることを知れ。医師の対立命題にもなりえない獣医師や犬猫病院を笑い物として対置することの恥を知れ。

 ブラックジャックは日本医師会や医学界に背を向け既存の権威や差別を否定し排除しているところにその要諦があるはずだったのではないか。手塚治虫が自身の医師免許を大上段から獣医師に振りかざす行為は手塚らしくもないのだ。

 赤塚を始めとするギャグマンガ家や落語家が医師と獣医師を比較において笑いを取るのことはその作品的特目から一定の合目性がある。しかし、殊、手塚は漫画家である前に医師であることを銘記しておく必要があった点において誤謬を犯している。という事実を踏まえながらも手塚作品に魅了されている己に自己撞着はない。それは、依然、漫画家手塚治虫は僕にたくさんのただしい心の在りようを教えてくれている所以に依る。

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2009年11月 9日 (月)

妖怪を能くする水木しげるさんがその精神的基盤を真摯に吐露した書籍

 僕は妖怪に興味がある。妖怪に係わる学問的定義づけを柳田国男が為しているほど妖怪と民俗学は不即不離の関係にある。東洋大学を創設した井上円了はもちろんのこと、小松和彦を経て妖怪の学問化は一応の体裁が整った感がある。学問的方法論の妥当性は別としても妖怪を広く国民に膾炙した水木の功績は大きい。

 【妖怪天国 水木しげる著 筑摩書房】を読んだ。水木の妖怪に対する篤い想いや妖怪へと逢着した経緯は従前から水木が述べているのだが、その精神史が綴れた本は比較的少ないように感じていた。左のような状況から水木が自己を洞察した一冊として極めて心強い一冊である。

 また、水木は学問的考察にたえうるだけの多岐多岐なる幅員を確保しているため、その精神史をみてゆくことに対して興奮さえおぼえる。大学院博士課程レベルで考究されても不思議ではない価値の高いマテリアルである。

 NHKの朝の連ドラでは、「ゲゲゲの女房」を放映予定としているとか。同名の書籍は装幀が特段に優れて美しい仕上がりをみせている。

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2009年10月24日 (土)

38歳になったこまわり君は輝いていた

  【中春 こまわり君 がきデカ復活 山上たつひこ著 小学館】を読んだ。彼の成長ぶりには瞠目に値するものがあった。社会人としてのキャリアを確実に積み上げて、妻子を抱えて奮闘している姿にはサラリーマンとして共感すら覚えた。また、一人静かに小料理屋で酒を嗜む姿に対し組織人としての孤独に想いを馳せつつも粋をも感じさせた。僕には、行きつけの小料理屋などないのだ。

 思えば、まったく同情の余地がないほどに低劣な悪ふざけの限りを尽くしたこまわり君が、或る時に種田山頭火ばりの出家を為した。ここが、こまわり君のターニングポイントだったのだ。以後、なにかを悟ったに違いないのだ。こまわりくん。その変節ともいえる甦生に僕は感動さえおぼえた。こまわりくんは僕をあっさりと抜き去っていったのである。48歳になったこまわりくんの姿にも注目したいものである。

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2009年10月21日 (水)

故杉浦日向子さんの本質

 多芸・多才・多能であったが、その本質は詩人であるとみた。作品を読んでいると、文脈から、そのポエジーが悲しいほどにビンビンと響いてくるのである。

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2009年10月16日 (金)

星 新一の作品を愛好していた

  【あのころの未来 星 新一の預言 最相葉月著 新潮文庫】を読んだ。星がショーショートと分野を開拓しその作品に込められた寓意について最相が一つ一つ検証していったのがこの本である。

 嘗ては、僕も星新一の大ファンであった。あの頃は、時代そのものが星 新一を要請していたように感じる。ゆえに一大ブームを形成した。時代の要請が無い限り如何なるムーブメントも発生のしようがないのである。現況、最相が、改めて、星に焦点を当てた意義は極めて大きい。その作業は紛うことなく現代を捉えそれを検証する作業である。

 昔のSFドラマなどを観ていると、現在は現在であるという規枠が存在するため、想定する未来像、即ち、ソフト面では奇抜であるものの、現実に用いられている機器やパーツ、即ち、ハード部分では大いに笑える。宇宙戦闘機のようなマシンに真空管が使われていたりする。そのくせ太陽にゆくまで3日くらいとか。

 21世紀と言えば、がんは征圧されると言われていた。が依然として制圧されていない。確かに薄型テレビは登場した。コンピュータの普及は預言されていてもウインドーズのようなOSの存在を預言した者は極めて少ないようにも思えるのだ。今、現在のような執務の形を誰もが預言しえなかったように思う。かんずるに、ノートパソコンに向かって一人一人が仕事している姿は奇妙である。キーボードを叩くという作業は古来から延々と続いた労働の様態から著しく乖離した形式としてして映る

 個人的な「あの頃の未来」と言えば、徹頭徹尾、僕は、特急列車の運転士になることを夢みていた。頻繁に上野駅の低いホームにつめかけては、絶対に、運転士になるのだと誓いを新たにしていたものである。切ないほどに、特急の運転士になりたいと嘆息したものである。そんなことを感じつつも、改めて星のショートショートを読んでみたいというな郷愁の念ともいうべき思慕をおぼえたのだ。

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2009年10月13日 (火)

楳図かずお怪奇幻想館の妙味

 ○ 楳図かずおの漫画がおもしろい。幼少期には怪談だの怪奇話を聴くと怖くて怖くてトイレに行くのも躊躇されたが、今、楳図のそれを読むと滑稽であると同時に、恐怖とは単に描出された絵やストーリーに在るのではなく、存在の在が心にあることが感得でき、それは、ただしく心理学の問題として処理される。

滑稽であるがゆえに僕は、今後、楳図の作品を愛好して行きたいと思っている。楳図もそうなのでるが、この世代の漫画家が描く画の質感がどこか懐かしいのだ。なお、以前に記事として掲げたとおり手塚漫画も着々と読み進めている。

 楳図作品の場合、角田じろうの「恐怖新聞」などと異なり、悪霊を前面に押し出していない点で、いわゆる、しんどさから解放される。角田のように霊界というなものに耽溺してしまうと氏自らが発する鬼気迫る「態(てい)」のようなものに眩暈され、それは病的のふうにも感じられるのだ。

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2009年9月10日 (木)

ということから天才バカボンのパパの年齢は

 現在、75歳であると推定された。

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2009年7月 8日 (水)

宇宙戦艦ヤマトにサザエさん一家が乗艦した状況を想定する

 ○ くだらない喩えだが発想の跳躍とはそいうことを考えてみることなのだ。別次元と別次元の衝突にこそ思想において跳躍の発生が起きるのである。如何なる状況であれ僕は窮理でありたいのだ。

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2009年7月 1日 (水)

手塚治虫の文脈

 手塚は、未来のメッセージというステレオタイプとして綴られる傾向が多い。その未来は現実に実現するのか。手塚が想像していた未来とは何か。その周縁事情がわからず、100年先においても、おそらく、未来へのメッセージと文脈で手塚は捉えられるに違いない。

 鉄腕アトムのようなロボットの完成をもって手塚が夢想した未来であると断定するのは余りに浅薄である。そのため、今、手塚治虫全集全400巻を読もうと計画しているのだ。未だ絶版になっていないというのが幸いである。

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