東京江戸博物館が開催されている標記の企画展を観覧してきた。僕は「鉄腕アトム」の時代の申し子という世代ではない。寧ろ、幼児期の記憶としては「リボンの騎士」のほうが釈然としておりアトムのことはほとんど知らないのだ。
長ずるに及んで、「ブラックジャック」に魅了された。また、「火の鳥」の気宇壮大なテーマには文学をも凌駕する可能性が漫画にあることを感じた。加えて、「人間昆虫記」や、「ユテラテの樹」、「きりひと賛歌」、「アポロンの歌」などの子供向け作品以外の漫画にも惹かれた。また、「アドルフに告ぐ」以降の作品群こそが手塚作品の要諦を為していると思えるのだ。なお、手塚氏に就いてはデパートの企画展で氏が執筆している様子を、高校時代に一度だけ見たことがある。熱烈な手塚フリークだった頃である。
殊に、ブラックジャックは何度も読み返した。この作品から発せられる名言は多い。「人が人の命を左右できるとおもっているのかね」・「医者ってなんだ」・「神さまとやら、あなたは残酷だぞ」など・・・。
唐突乍ら、手塚治虫と北杜夫の両名。この二人は就いてはどうしても比較してみたくなる。両者は世代的にも近いうえに昆虫にも造詣が深いのであるが、それよりも、寧ろ、大阪大(専門部)や東北大学医学部を、それぞれに卒業した後、医学博士を称号とし乍ら医師という共通の経歴を持ち、表現を手懸かりとし乍らも進むべき方向が漫画、或いは、文学へと逸れていったことはまことに興味深い。この二人を並べてみた時、漫画と文学の差異について考えさせられもする。
確かに、漫画には表現における成熟点に限界があり、或る位相を超越することが困難なのである。而して、文学は成熟における到達点が漫画とは別の形で設定されているが、それを以て、どちらが高尚であるとは断定し難い。しかし乍ら、刮目すべきは、漫画に詩学を導入した、つげ義春、または、つげ義男の存在がある。その路線を承継している漫画家、または、漫画の文学化を為した漫画家に就いて僕は無知故に知らないのである。多分、つげが、文学という軸についての漫画からの漸近線を画いてみせたに留まるのでないか。
また、表現者として宮崎 駿も歴として存在しているが、氏はアニメというカテに括られる。宮崎は手塚に関して必ずしも肯定的でなく辛辣で慇懃無礼な態度を堅持しているが、その辛辣さを以て自己を辛辣に批判せよと宮崎には言い返しておく。
僕自身、漫画も、一時期において相当読み込んできたつもりではいる。しかし、最後には、結局、文芸に逸れるのは何故なのであろうか。それは僕の脳のクセなのであることにしておく。
手塚が為した偉業を集大する時期において逝去したのはまことに残念であった。享年60歳。窮理に対する可能性を妊んだままの死であったと思えてならない。天才の早すぎる死は一つの罪悪に他ならないのである。
それにしても、両国という街はお相撲さんがたくさん歩いており粋な風情を感じる。駅も威容として威厳がある。昼食は、深川丼のぶっかけメシを博物館内の食堂で食べたが美味であった。さすが江戸東京博物館。博物館内のレストランは不味いと相場が決まっているが、東京江戸博物館のそれは上品においしく典雅でさえあった。7階にあるこのレストランからは、父が転校した2つ目の高校が見えた。父の転校歴は凄まじいものがある。それも祖父が国鉄に生きてきたが故。
京都に憧憬するのもよい。しかし、当地から至近距離に江戸文化が息づいていたのである。今後は、江戸文化をも興味の射程内におさめるものとした。
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