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2009年7月

2009年7月31日 (金)

水上 勉が心筋梗塞を発症したときに集中治療室において感じたこと

 亡くなる人の声をきいても、自分は生きられたことの喜びで小躍りをしているのだ。恐ろしいことだが、ながい仏門生活も、何の足しにもなっていなかった。これが救急病院の集中治療室が呉れた大事なことの一つであった。【骨壺の話】に典拠

☆ それを責めるつもりは毛頭ない。些末なこと乍ら水上氏が入ったICUではなくCCUであると想像する。

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何故、自ら死を選んではいけないのか?

   「何故と問うていけない。理由を求めてはいけない。理由はないのだ。これは決断なのだ。死を選べるからこそ理由もなく生を選ぶのだ」。【少年と老師 南 直哉著】に典拠。

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2009年7月30日 (木)

池田晶子は心や魂の原点である

  時折、池田晶子の本を無性に読みたくなる。そこで、【あたりまえなことばかり トランスビュー刊】を読んだ。あたりまえのことがあたりまえに綴られていた。この本の特徴は、なにしろ密度が濃い点にある。おそらく、がんという病を得てから書いたものなのであろう。

 その死生としての言葉には凄味さえ感じられた。本の帯には、「言葉は命である」と記載されている。おそらく、人というのは、言葉によって生きる存在なのである。或いは、言葉によって死ぬ存在でもあるのだ。言葉が存在しない世界での死は存在しないという思惟には確実性が感じられた。

 補遺・・・

 一週間ほど前に読んだ本であることを附記しておく。

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高野山と比叡山の差異に関する賢察

  高野山は、あまりに山奥にあるため、俗があとから(高野山に)入って来たのでしょうけど、お寺に町(俗)がくっついてしまい聖俗一緒になってしまった印象があります。

 比叡山の場合、町はすぐ下にありましたから山の上に俗を持ってくる必要がなかったのです。【千日回廻行 光永覚道著】に典拠。

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2009年7月29日 (水)

鉄道グッズはガーデニングに応用できる

  例えば、廃品となった信号機や転轍機をオークションで落札して庭を彩るためのガーデニングにも応用できる。ちょっとした駅舎を建ててもよい。運賃掲示板や、駅名表示板だってオークションで入手できるのだ。それは家庭で楽しむ旅情なのである。

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オリンピックなどの競技大会で新記録は更新され続けるのか?

  更新され続けることはあり得ない。

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幽霊は存在するのか?

 【幽霊を捕まえようとした科学者たち デボラ・プラム著 鈴木 恵訳 文藝春秋】を読んだ。キュリー夫人などが幽霊の存在を肯定していることには驚きを禁じ得なかった。幽霊とは幽かな霊のことであり、それが大層の悪さをするはずもない。

 とまれ、幽霊に関しては、魂と霊の差異にも関連してくる問題も胚胎しているだけに、直感で、即答せよというのなら、生霊のようなものが魂である可能性もある。では、魂と心とは何処が異なるのか。池田晶子がこの問題に就いて明快に解答を呈示していた。いづれ紹介したい。

 霊とは死後に存する魂のように一般には膾炙しているが、本来は、そうした文脈とは異なる意味で使用されていたのではないかと思えるのだ。

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魚を食って俺に話かけるな-食の多様性として-

  ソマリアには、魚が汚らわしく不気味な存在であるという認識から発生した標記のような言葉がある。

 また、卵を食べることを禁忌とする地域も多く、それは生命の源を殺してしまうという解釈に基づく。ましてや、生で卵を食べる民俗は日本人以外まずいない。

 他方、アメリカやイギリスでの馬肉は絶対的なタブーなのである。アメリカ下院では、馬を屠ることを禁じる法律を可決しているほど徹底している。【世界奇食大全 杉村幸徳著 文春新書刊】に典拠

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2009年7月28日 (火)

一体、坊さんは何のプロなのであろうか

  世間には、仏教に期待したって始まらない・・・という見切り観がある。坊さん社会は、能力にあまり関係のない長老主義と大寺権威主義という堅固なヒエラルキーのなかにある。また、檀家主義というスポンサーシップに依存し再教育の場を持たない。それは、努力しなくても生きていける独特の社会なのであり、幾つもの権威らしきものに守られた閉鎖的依存型社会でもある。【寺よ、変われ 高橋卓志著 岩波新書】に典拠。

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学校教育における学びの構造的特性

  「それが何に役立つか」を子供たちが未だ知らず、言葉で表現できないからこそ子供たちは学校に通わなくてはならないのである。学びとは学び終わった後になってはじめて自分の学んだことの有用性や意味を知ることができるという順逆の転倒したかたちで構造化されている。【昭和のエートス 内田 樹著】に典拠

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2009年7月27日 (月)

偏差値40からの東大医学部受験

 ○ それも個人の能力に照らすと無理な話であるということになる。営利教育を旨とする予備校だって、そんなキャッチコピーは造らない。

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人間の限界とは何か?

 ○ 人生において100%を求めるのは無理だ。在る部分が突出している部分だけ、在る部分が欠落している。そんな等式で結ばれるのが、また、己でもあり、それが普通なのだ。

 ヒトのいうマルチなんて多寡が知れている。オリンピック柔道で金メダルを取り、なおかつ、世界数学オリンピックで金を取る。そんな人は存在しない。ノーベル医学賞と文学賞の二つの栄誉に輝く人もいない。

 ヒトの限界とはどこまで在るのだろうか?洋遠たる砂漠のようにその果ては何処いらあたり迄、連綿と続いているのだろうか。

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各駅停車的に存在する派出所

 ○ 日本の交番というシステムは、やはり、凄いもので各駅に一つづつ駅前交番がある。

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僕とは?

「体か」/「違う」。「心か」/「そうかもしれない」。「いつの心か」/「今の心だ」。「今はもう過ぎた。過去の心は既にない。そして、過去の心と今の心と未来の心が、おなじ僕の心だとなぜ言えるのか」→「本当を問うな。今、ここにあるものがどのようにあるのか、どのようにあるべきなのか問え」。【少年と老師 南 直哉著】に典拠。

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言うと行く

 ○ 二者は、動詞にして、なおかつ、方向性において酷似した営みである。

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竜安寺の石庭に何を思うか?

 ○ そんなものいってみなければわからない。屋舎工事中ならさらにわからない。いづれにしても京都。それでも京都。今年の夏休みは京都にゆくことにした。

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死を観想する位相としての化野念仏寺

 ○ この御寺では死を観想することができます。

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2009年7月26日 (日)

旅行会社社員の夏休み-JTBの場合-

 ○ 夏休など取得している暇などないそうだ。もっぱら、2月に振り替えが行われる。職業には職業特性が存在しているのだ。

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内臓と病気の詩学

 ○ 双方に詩的感興が宿りうるのだ。

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とぐろを巻く空回腸

 ○ 十二指腸に続く空腸・回腸にあたかも、蛇がとぐろを巻いているかのようであった。

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堂々たる内臓

 ○ 「惨憺たる鮟鱇」という詩に対して、僕は、寧ろ、「堂々たる内臓」たる詩歌、或いは、何故に、内臓は、堂々としているのかというテーマに就いて文学的感興が湧き出るのだ。

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明日のエコでは間に合わない

 基本的には、「今日のエコ」、「昨日のエコ」でも間に合わないと思っているのたが、民放の愚にもつかない放送こそ環境破壊に関する一番の元凶である。

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男性のオッパイ

 その存在意義は不明にして不可解。端的な話、無くってもよいと思うのだ。発生学的必然なのであろうか。人体について、オプション設定が可能なら、僕はオッパイは不要であるし、髪の毛も要らない。しかし、ワンランク上の頭脳を装着するであろう。

 冗談はともかく、人体において、比較的、オプション的可塑性のあるのは歯に関する部分だけであろう。また、投薬される薬だって医師の好みが反映されたりして、そこにはオプション性を感じる。それは、おそらく精神科において著しいものがあるような気もする。

 臓器移植法案がかまびすしい。当然、ドナー側の臓器にも、状態のよいものと悪いものがあるだろう。そこにも、明確にはオプションとは異なるが、オプション性を感じるのだ。

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103系電車のような人

 そんな人も居(要)れば、リニア・モーターカーのような人もいる。他方、蒸気機関車のような人もいる。クルマで換言すれば、軽自動車のような人・カローラのような人、ベンツのような人もいる。

 僕は103系電車のような人でありたいものだと暫し思うのである。みんながリニア・モーターカーのような人だったら困るだろうし・・。103系電車は新幹線を羨望しないものなのである。

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クルマは選択しなくてはならない

 自分で設計するなどして100%の得心のゆくクルマを求めることは不可能だ。家を建てるのと異なり、「こういうクルマが欲しい」と注文することはできないし、こういうクルマを造って欲しいということもできない。

 クルマは、市販されているクルマのなかからの選択しかできない。それゆえに、乗りたいクルマが市場に出ていないことがあるため苦肉の選択として「まっ、このクルマにしようかな」という諦めを動因して購入する場合がほとんどなのである。そんな状況のなかプリウスは100%の得心がゆくクルマであったのだ。

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肝臓と岡本太郎

 ○ 肝臓に精神の坐があってもよいではないか・・・と岡本太郎なら発言しそうだ。僕も、また、肝臓に精神の(います)が存在したとしてもおかしくないと思えるのだ。メカニズムは理解している。メカニズムは理解していも、アルコール中毒者が幻視・幻聴をする時に、その精神的な主導の坐は肝臓に移動しているとしても、医学的には合理ではないが、或いは、一つの現象として不思議なことであるとも考えきれないのだ。

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措置入院までの流れ

いわゆる24条通報というのがある。「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」の第24条のことである。警察官は自傷・他傷の虞のある者を発見した場合、最寄りの保健所長をつうじて都道府県知事に通報しなければならない・・・という規定をさし、通報が為されると精神保健指定医に対して強制入院の必要があるかに就いて措置鑑定をおこなわせるために措置鑑定命令書がおりる。左を根拠として精神保健指定医は本人の希望がなくても診察をおこなうことができるのだ。

 次のステップとして措置入院の鑑定診察が行われる。入院時点で、緊急措置入院が必要と判断した医師以外の知事が指定した2名の精神保健指定医それぞれが診察を行う。この2名の医師の意見が一致した場合に措置入院が継続されるが1名でも措置不要と判断した場合、措置入院の継続はできない。【精神科ER 備瀬哲彦著】に典拠。

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梯 久美子さんと北海道大学獣医学部

 過日、放映された週間ブックレビューで司会を務めたのは梯 久美子さんであった。的確な所見を述べていたので来歴を調べてみたら、僕と同学年で、しかも、北大の文学部卒であることがわかった。

 北大にも獣医学部があるのだが、僕のオツムが爆裂するほどに選れていたなら北大で同期である可能性もあったんだな・・・などと思いつつもそれは高嶺の花とも無謀ともいう話であったのだ。梯 久美子さんの感性に対して敬愛を惜しまないのだ。それにしても、定めし、才媛であったのだろうな・・と思うと共に、文学系は知性よりも発想・感性にその本態が宿るものとも考えられた。

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2009年7月25日 (土)

文学博士という学位は何か?

 ○ その真意を問うてみると、その意義に就いて些かの疑問が発生する。現在、文学部においてカバーしている学問的領域は多岐に渉るが、その本質を遡上してゆくと、基本的には文学は非学問的であるはずなのだ。

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下北半島の寂寥感

  ○ 東北学者の赤坂憲雄は下北半島を訪問した時に襲われる寂寥感とも物悲しさともつかぬ感情をうまく表出できなかった。(※ 僕自身も類似の体験を持つ)。考え抜いた赤坂は明確な答を見いだした。「風景のなかに稲が欠落している」。

   その言葉は僕自身の心のなかにストンと落ちた。〈赤坂憲雄著 東北学/忘れられた東北〉を参考

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2009年7月24日 (金)

知のエトス

 人の知的な深みは、その人が抱え込んだ葛藤の深さと相関する。 【昭和のエートス  神戸女学院大学文学部教授 内藤樹】

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幸福が実現する可能性

 ○ 一元的で、なおかつ、普遍的な幸福の様態はおそらく存在しない。

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猫のナルコレプシー

  ナルコレプシーに関しては、犬では既に報告例があるが、現状、猫での報告例は勉強不足のためかきいたことがない。猫は大抵において寝ているので何を原因として寝ているのか不明なのであるが睡眠導入の状態を観察することに依って直感的な予備診断をつけることは可能であろうと思われた。

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2009年7月23日 (木)

歯科に通院するは面倒である

 しかし、確実に齲歯が修整されてゆくという喜びがある。

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季節性のドライアイという現象は存在するのか?

 夏は、重篤なドライアイになることが少ないのである。空気の乾燥している冬期において状況は重篤化するのだ。

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逆流性食道炎に著しい効果を発揮するタケプロンOD錠

 この薬はただしく良いクスリのようで標記の症状に対して著効することが確認できた。他の人に効くかどうかは知らない。もちろん、僕は医師でも薬剤師でもない所以に依る。

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横尾忠則氏による装幀が美しいことを以て購入の動因とした一冊

  【奇縁まんだら 続 瀬戸内寂聴著】を読了した。それにしても横尾忠則氏の画は素晴らしいかった。横尾という人に黄色を使わせたら天才的能力を発揮する。少し、ポップアートに方向転換してみようかなとも思った。

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2009年7月22日 (水)

死人に口なしは本当か?

 唯物的な立場を採るのなら別だが、死人ほど雄弁な者はいないはずだ。

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心に常駐するはかなさ

 ○ それは空しさや虚しさとも異なり、はかなさという表現がぴったりとするのだ。

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ユーミンが詩を為した唯一の東北

 ○ それは、【緑の街に舞い降りて】という歌の歌詞に出てくる盛岡だけなのである。ユーミンは、南こうせつらを四畳半フォークとして一蹴し、新しい形の、いわゆる、瀟洒なフォーク像を打ち立てた。そんなユーミンが、アオモリでもなくセンダイでもなくモリオカをテーマとしたことにユーミンの東北観に関する詩的直感の鋭敏さを感じるのだ。

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生と死における立場的な差異

   一緒に暮らしている家族が現世にいるように、同じく死者はあの世にいるだけのことであるとも考えられる。死んだ人は旅に出ているのであるし、また、先発として先に行っているだけのことだ。僕は唯物的な立場を堅持したいのであるが、あの世のことを思考実験してみるとそういう可能性だってあるのだ。

 知遇を得ながらも、今生において生存しているのに、今後、終生、逢えない人がたくさんいる。単に同窓生という単位でみても、寧ろ、逢わない人の方が遙かに多い。それは一つの立ち別れという言葉に置換できる。

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2009年7月21日 (火)

奇食は健全なる文化なのであった

  【世界奇食大全 杉岡孝徳著 文春新書】を読んだ。従来、この類の本は、東京農業大学で発酵学を専門としている小泉武夫氏の専権事項的な感があった。小泉とは別の視点から描かれたこの書籍は奇特にして重篤である。掛け値なしで笑える一冊であった。

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日本一美しい湖は十和田湖なので一度は逍遥しておきたいものである

  十和田湖を含む青森を旅する場合、三沢駅から十和田観光鉄道(2両編成の可愛らしい電車である)に乗り十和田市駅までゆくとよい。八戸や青森駅からのアプローチはススメない。そこからバスに乗り、一路、十和田湖を目指す。直行せずに途中、奥入瀬渓流の停留所で一旦下車し渓流に沿って歩き十和田湖へ向かうとよい。そこはまさに渓流なのであるが遊歩道は整備されており生身の十和田の自然を体感できる。

 すると子の口という場所に到着し十和田湖が望めるので一休みした後に、再度バスに乗り十和田湖の反対側に位置する休屋へと行く。ここが十和田湖の中心であるともいえる。ここでは名物のマスの刺身料理が食べられる。また、高村光太郎が製作した「乙女の像」がある。文人墨客にも十和田は大変に愛されその代表は大町桂月である。

 休屋を堪能した後、遊覧船に乗り子の口へと取って返し、再び、バスに乗りいよいよ八甲田越えである。しかし、その日は、途中の酸ヶ湯か蔦温泉に宿泊したい。風情のある温泉である。が、一部、混浴もあるので気になるかたは注意を要す。

 八甲田山ロープウェイに乗ったり、八甲田雪中行軍の資料館や、様々な湖沼群を探索して青森へと向かう。青森市街には基本的に選れた観光施設はない。もちろん、棟方志功美術館などあるがそれは好みの世界の話である。観光物産館アスパムという三角形の大きな建物もあるが、大層、おもしろくもない。しかし、アスパムからの眺望は、下北半島と竜飛をみることができるので、一見の価値はあるかも知れない。僕はといえば、寧ろ、青函連絡船のメモリアルシップのほうを推す。しかし、これも、好みの問題である。で、青森駅から電車を使って帰途に就くルートが一応のオススメコースである。また、紅葉のシーズンは大渋滞するので避けたほうがよいかもしれない。

 ただし、これは概略の案であり、奥入瀬渓流を何処から歩き始めるか(バス路線と並行しているのでどこからでも歩ける)等々は個人の事情を勘案した方がよいだろう。十和田湖と言えば青森。青森と言えば十和田湖。十和田湖は、一部、秋田県に跨っているが、青森県の観光資源として最大な箇所は十和田湖なのである。なお、弘前には、桜の季節に行くのがベストである。自家用車を使用しなくても十和田湖を逍遥することはできる。

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2009年7月20日 (月)

睡眠中の自我

 それはすべてのフェイズにおいて無責任でもかまわない。寧ろ、睡眠中の出来事には己の体躯に対してさえ責任の取りようがないのだ。

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ドイツ語で歌われた「我は海の子」に感動した

 ○ この唱歌は、ドイツ語が馴染む。

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皆既日食は怪奇日食だと信じていた幼年時代

 怪奇日食は怪奇現象であると当識していたために、僕は、小学校の3年生くらいの時分まで怪奇日食であると信じて疑わなかった。

 今回は悪石島での怪奇日食。その島の名前の由来に漠なる民俗学的興味をそそられる。なんだか、横溝正史を想起するにたる名称なのだ。それにしても、横溝が「湯殿山麓呪い村」を書いた時、山形県民は、よく温和しくしていものである。

 怪奇な皆既日食と悪石島。そこには横溝正史的ワールドと正の相関、つまり、何かが書けるはずだ。もちろん、逆に、おどろおどろしい横溝ワールドではなく、一般に、悪、という倦怠の思念を吹き飛ばして有り余るほどまでの悪石島にプラスイメージを賦与することだって可能だし、そういう方向性を模索するのも、今後の民俗学的発展系の形として賦形できるものと思われた。学問は人の幸福のためにある。

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IKEA(イケア)というファニチャリングを標榜する家具屋さんに行ってきた

極めて合理的な思想に貫徹された従来にない発想に依る家具屋さんである。否、家具というカテゴリーには収納しきれないほどの広汎な商品を備えており住空間に係わる心強いサポーターである。価格は低廉だが、安かろう悪かろうではない。発想にして奇抜。売場面積も広大であり、半日、見て回っても飽きることがない。新しい家具店の形式の胚胎を予感する。

 参考

http://www.ikea.com/jp/ja/store/shinmisato/storeInfo

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夏は茄子

 それは窮理にして胡瓜。

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まっすぐに生きるために休む

月曜日から金曜日は働く。土曜日と日曜日は休む。それが素直な生き方であると僕は思う。法律に基づいた祝日も休んで祝日の意味を理解し勤労に感謝する。それにしても、労働と休みは等価の関係にある。誰でもそうだろうが、働くために生まれてきたのでもなければ、休むために生まれてきたのでもないのだ。

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現代における坊主三傑

 玄侑宗久・南直哉・対本宗訓が現代坊さん三傑である。玄侑は理屈において過剰である。南はリアルな直球勝負。対本は宗教的方向性を明らかに間違えている。僧医にも人の心を救えない。人は人の思惟によって己自らの魂の救済を求めてゆかなくてはならない。

 医学と宗教は別物であり、それを混同しない方がよい。対本が緩和医となり、疼痛を除去してから説法を始めたとしても、緩和そのものを対本が担う必要的義務は発生せず、緩和のほうは緩和の医師に任せておいてよい。対本をして代え難いのは緩和にあるのではなく、専らその宗教的資質に依るところにある。

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出版社の良心の発露としてのちくま文庫および講談社学術文庫

 将来をみすえた時、残しておくべき質の高い本で、絶版が予期される書籍は、概ね、この二つの文庫で拾遺しているところに、僕は両者の出版社の使命と覚悟を感じるのである。

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2009年7月19日 (日)

精神科ERというインパクトがあるタイトルの本

 【精神科ER 救命救急室 備瀬哲彦著 マキノ出版】を読んだ。東京都立府中病院の救急救命室における精神救急に携わった医師が上梓した本である。この病院は、東京ER・府中としても位置づけられており都立府中病院との関係、およびまたは、ERと救急救命センターの機能的差異が判然としなかった。もちろん、精神科ERという科所は存在せず著者の造語として本文のなかでも注釈が加えてある。

 が、東京都は別として、各自治体で精神救急の設備の設置が為されたのは比較的最近のことである。当然、精神疾患においても急性期には症状は重篤であり、社会医学的にも、その設置は喫緊の課題であった。就中、夜間における精神医療は今現在においてもお寒い状態にあることは想像に難くない。

 精神救急をする医者は消耗が激しいという話を聴く。この本を読んでみて大変な仕事だなと改めて感じた。或いはまた、精神救急に携わった普通の医者の体験談という範囲のなかに収納される類の本であり、刮目するような哲学性等々を期待するのであればこの本は期待外れである。精神科には精神科の固有の世界がある。そのなかに身を置く者の一般的体験談としては確かに興味深い。また、この本に色を添えているのはプロのフォトグラファーによる写真である。閉鎖病棟・隔離室・拘束具・電気けいれん療法に使用するECTという機具も初めてみた。

 ECTによる治療など、とうに昔の話であると思っていたが、ドッコイそれは命脈を保持していたのだ。こうした治療法がある限り精神科のイメージが悪くなるのは一つの事実であるが、その適用がベストの選択である限り、一定の条件の下で実施することは、著者の主張を読む限りただしいものと思われた。寧ろ、精神科受診は現今の日本において極めて妥当であり人は狂を発してこそ自己の生物学危機を回避し己の律然を獲得する。今、この国では、常態でいる方が至難である時代なのだ。

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横浜市の中田市長がいうところの「楽しい国」とは、一体、どういう国のことを想定しているのか?

  中田市長が政治団体「『よい国つくろう!』日本国民会議」を設立すると発表し、「日本人の誇りと自信と夢を回復する」「国民が自らの足で立つ、税金の安い、楽しい国をつくる」ことなどを理念として掲げた。

 最大の疑問が最後に掲げてある「楽しい国」とは如何なる国家の態様を指定しているのかが理解ができない。大凡、「国家」と「楽しい」は相容れない。政治に纏わる部分でも言語の幼稚化が進行していることを憂う。そういえば、「美しい国」の実現を目指した総理も簡単に政権を投げ出したことも想起される。

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2009年7月18日 (土)

赤坂東北学のエッセンス

 赤坂憲雄という人がいる。僕は氏を民俗学者としてよりも東北学者と呼びたい。現実に、赤坂東北学という言葉もあるらしい。学者は現実に東北をどのような視点で捉えているのかを知るべく【東北学/忘れられた東北 赤坂憲雄著 講談社学術文庫】を読んだ。

 なにより、夥しい程の踏査を実現している点で言の葉にも一応の説得力があった。しかし、この本も東北各地を点として思考している弊を免れておらず面としての東北学的視座が欠落していたがそれは些少。点を稠密すると面になる。東北という理路で東北を語る場合、それは面で語らないと意味がない。で、あることから、観察点を増大させてゆくことによって、点は面として性格を顕してくれる。

 踏査した結果を照合することで共通点を探ってゆく。それも民俗学的な基本方法の一つであり、赤坂は丹念にその作業を続けていることは高く評価できるし、また、本質は細部に宿ることをこの人は知っているのだ。一般に、東北学は、この一冊から始まるとしてもよい。そういう書籍的立場を構成している一冊である。

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2009年7月17日 (金)

今、池田晶子はどこにいるのか

 ○ ニュートリノとして、今、僕の体を貫通した可能性だってある。

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日本人の哲学的態度-自我は歩行するのか?-

 ヨーロッパにおいて哲学をする時には、自我というような言葉は使わず、「私」と表現する。日本では、「わたし」を「自我」などと訳すから、「自我は歩行するのだろうか」というような話になってくる。

 しかし、哲学とか文学ということをみていると、記述というのは、或る文体でないと完成しない部分がある。哲学という作業は、そこにあるところのそれは何かという問いについて、これを言語化する作業でもあるので運用する言語が難解になることも致し方ない。【鷲田清一談を参考】

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足を洗うこと

 衛生の基本は足の清潔にあるような気がしてならない。それは、即ち、人生本態の基本である。

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2009年7月16日 (木)

天賞堂から青函連絡船の完成模型が発売される

 早速、十和田丸を予約しました。販売時期は8月。現状での在庫は相当あるようです。或いは、遊弋するのは軍艦のことであって、商船は航行するという表記がおそらく正しいのだろうと思います。しかし、どの様態をとろうと、それは航海であるには違い在りません。

 参考

http://www.tenshodo-models.com/product/release/page07.html

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死はどこからくるのか?

 兼好法師は言った。「うしろより来たれり」。

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剽の思想

 現代を生きる知恵として『剽』という知恵は一つの指針を示しているように感ぜられる。それは、剽軽とも、飄逸とも、剽悍とも異なり単体として剽のことをさす。ただ、剽に徹すること。それもまた、剽なる態度であると思うのである。

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本は紙を媒質として読む

 何が悲しくて携帯電話や電子辞書で読まなくてはならないのだろうか。読書とは、本の匂いを堪能することも含めて、それが読書の総体なのである。しかし乍ら、ケータイ小説を否定するものではないし、そういう表現形式が駘蕩してきたのは新しい表現手段の発見である。であったとしても、僕は文学をはじめとする書籍は紙を媒質としての関係を結びたいのだ。

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2009年7月15日 (水)

山折哲雄さんの飄

 そこはかとなく慎み深く、悲しくも滑稽なふうをさして僕は山折哲雄さんの剽と形容するのだ。

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ノスタルジックトレインという雑誌が発刊された

 ○ 高い専門性はないが、廉価にして秀逸な雑誌である。

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南 直哉のアフォリズム

  【老師と少年 南 直哉著 新潮社】を読んだ。南が発するアフォリズムの集成としてたえず携行したくなるような本である。嘗て、僕がツァラトゥストラを常に携行していた如く・・・・。

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見舞われる

 病に見舞われる。災害に見舞われる。病を得た時にお見舞いに来て頂く。病人をお見舞いにゆく。見舞うとは、元来の言語発生の部分において、どのような意味があるのだろうか。基本的には、能動的行為の主体性としての言葉てあるには間違いがないのであろうが・・・。その運用は不思議なほどに多義的である。

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川田順造氏の声に係わる言説

 声を出す・かける・たてる・あげる・あらげる・はげます・おとす・しぼる・ふるわす・しのばせる・・・・。声は人間の生理の、深くやわらかい部分に直結しているらしい。それは、声を発する状況性と、声を発する者の現全性と、声をむけられた者の特定性とを巻き添えにして成立している。声は、わたしから出るものでありながら、口から発せられた後、他人と共有されてしまう。 ☆ 川田氏はうまいことをいうものです。

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2009年7月14日 (火)

蛇が気持ち悪い生物学的理路

 その理由が僕には不明なのである。しかし、嫌いなのである。それを生理的嫌悪感とも表現したくないのだ。

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日本全国各地を走るスクールバスのバリエーション

 各個の鉄道会社の車両のカラーリングに個性があるようにスクールバスにもまた個性があると思うのだ。スクールバス図鑑のようなものがあれば躊躇わずに購入する。

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公務員と幸福実現党

 ○ なにゆえ、かの党は公務員をヨイショしているのだろうか。党首である大川きょう子女史曰く「公務員の方々はもともと高い能力を持っています。公務員の能力を縛っている膨大な量の法律・規制・通達をリストラします」・・・。そういう考え方もあるのかと奇特にも感じつつ、僕は政治と宗教が結びついたような党を断固として支持は出来ないのだ。

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観るものにして尊ばず

 奈良の大仏はいにしえよりそのように言われてきたのだそうだ。充分に尊いと僕には思えるのだが・・・。もちろん、大仏は観るために在り、奈良の大仏が秘仏化したら、世故的には大変なことになる。

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存在論おいて池田晶子は宗教を超越した境地にいる

 釈尊もキリスト教も斬って捨てる論理は明快である。池田晶子的立場は存在論にその真骨頂がある。

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蛇に取り憑かれた女性民俗学者であるところの吉野裕子

  【蛇 日本の蛇信仰 講談社学術文庫 吉野裕子著】を読んだ。民俗学に蛇という視座を動員した、まさに、蛇淫の性ともいうべき刮目に価する一冊である。蛇と民俗学は不即不離であることは吉野の論を待つまでもなく自明なのであるのだが、それに明確な形として論理的賦与をおこなった希有な一冊である。

 もちろん、蛇は、様々にシンボライズされ、ヘルメスの杖の喩えからWHOの印として、また、経済の神様として、一橋大学の校紋にも採用されている。まさに、吉野民俗学の屹立たる面目を施した一級の内容である。とは言い乍らも個人的心性としては僕は蛇を好まないし、吉野も苦手のようだ。要するに、蛇は気持ちが悪いのである。

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2009年7月13日 (月)

ヘーゲルを睥睨した池田晶子女史を睥睨し返す

 【睥睨するヘーゲル 池田晶子 講談社】を読了した。嘗ての彼女の著書にない程、その言葉は激越にして辛辣であった。それに対して僕も池田晶子を睨み返したのである。池田晶子は魂の故郷である。時折、その謦咳にふれたくなるのだ。つくづくと天才とは薄命なものである。

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著者は千日回峰行の様子を仔細に述べてしまいそれを僕は宗教的な禁則行為であると思うのだ

 【千日回峰行 光永覚道 春秋社刊】を読んだ。この人は、標記の修行に関して饒舌でありすぎる点において過誤を犯している。

 この類の書籍では饒舌になりすぎぬことが肝心。仏徳のようなものがあるとすれば、その霊験のようなものが豊舌によって衰微するの危惧を感じる。秘密は秘密。神秘は神秘としておくのがよし。

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2009年7月12日 (日)

プリウスの安全性-静粛が故の危険および感電防御措置を講じることによる救急救命の遅延-

 プリウスを再び見てきた。見積もりを出してもらったところ300万円に近くなった。それだけのお金を払ってまで乗るほどの車格とはいえないのでグレードを少し下げることとした。現在、乗っているステーションワゴンは車検の関係から購入契約が12月になりそうだ。

 走行音が静粛なので、歩行者に対して危険であるという話もある。また、プリウスはモーターアシストで駆動するため、万一、交通事故が発生した場合、救急隊は感電防止確認作業に手間取り、果断、救命に取りかかれないという噂を聞いた。ありそうな話であるが、僕はプリウスを買うことにしたのは決定事項である。

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抜歯した歯は墨色に変化しており感染巣そのものであった-炭疽ようにも酷似していた-

  抜歯をしたくないのが本音である。が、昨日、抜歯したところ標記のような状態になっており、これなら抜歯もやむをえないものと感じた。一概に、口腔外科医だから抜歯を勧奨するのではなく、そこにはただしく歯科医学的理路があることを感じた。

 それにしても抜歯は苦痛を伴い、やむをえないもののあくまで原始的手技によるものだなと感じざるをえなかった。江戸期において非麻酔下の抜歯は定めし苦痛であったことだろう。当面、歯科全般の治療を継続してゆくなかでインプラントの可能性を模索してゆく。

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2009年7月11日 (土)

明海大学歯学部附属病院で歯科治療を受けた

【7月1日(水曜曜日)第1病日目】。上顎の歯茎に疼痛を感じたため口内炎の病識を得た。

【7月2日(木曜日)第2病日目】。口内炎に伴う腫脹感を強く感じる。

【7月3日(金曜日)第3病日目】。上顎洞付近の頬部が腫大。当日は、暑気払幹事を務めていため歯科の受診ができなかった。帰途、別職員にクルマにて家まで送ってもらう。自宅到着後、右頬部限局性の炎症と腫大を確認しその炎症が瀰漫性であることからフレグモーネと診定した。

【7月4日(土曜日)第4病日目】。重篤な炎症のために顔面が歪み左右の対称性を逸失し口腔内口唇粘膜が露出しドライマウス状態になる。そのため、歯科を受診。経口に依る抗生物質の投与では治癒は望めないため、医科での抗生物質の点滴を受ける。

【7月5日(日曜日)第5病日目】。腫れは退褪せず、さらに重篤性を増し、眼瞼および眉間にまで波及し眼が半分、潰れた状態に至る。再度、医科にて同治療に加え歯茎を切開し排膿した。これによって相当程度の嫌気性菌が死滅するというのだが何故、嫌気性菌に感染したかは不明である。同日、歯科も受診し入院勧告を受ける。指定先の病院は明海大学歯学部附属病院。せめて日大歯学部病院程度にならぬかと懇願したところ、主治医の母校であること、急性期の治療においてベッドの確保が困難であることを理由に強く明海大を奨められる。また、歯科には歯科大の病院が適当であるとした説明を受け、これに不承乍ら納得し紹介状を書いてもらう。

【7月6日(日曜日)第5病日目】。明海大歯学部附属病院へゆく。最寄り駅からタクシーで病院へ向かおうとしたところタクシー・プールもない所なので、城西大学の学生たちに混じって山道を徒歩にて病院に向かう。明海大学は、城西歯科大学が単科大として存立が怪しくなったため明海大学として独立した経緯があり不動産学部等も設置している。

 この病院に対するファースト・インプレッション等には惻隠の情を以て触れないことにする。診療の状況に就いては記しておく。準教授程度の歯科医が出て来て、頬部等の顔面を触診しないまま、「眼下膿瘍」という診断名を賦与された。もちろん、「眼窩膿瘍」なら視神経にまで波及する大変な状態である。で、眼下膿瘍。顔面右側において眉間から、下顎部に炎症が拡大しているのに、眼下膿瘍とは解せない診断名であった。状況は、組織間隙を瀰漫性に浸潤する、寧ろ、フレグモーネなのである。

 歯科医になって3年目という若いドクターと交替し、点滴下抗生物質治療を開始。ところが、血管の確保ができないのである。ブツと針を血管に刺入しても必ず外す。もちろん、大学病院なので明海大学に限らず、経験値の差からこうした事態は容認できる。しかし、アル綿で、採血部(CRPを診るため)  を清拭しないで採血とは一体、どういう教育をしているのだろうと頭を傾げざるをえなかった。もちろん、抗議した。また、当該血管を潰すと、そこに絆創膏を無言で貼り、別の血管に採血針を刺入する。僕は言った。「キミ、この血管、どうしたんだ、ちゃんと説明しなさい」。曰く。「すみません。採血できません」。「それなら一言断っておくのが患者に対する礼儀でしょ」と叱る。アル綿なんて歯科のユニットに常備してあるのが普通ぢゃないのか。あちこちのユニットで歯科医たちがアル綿を持ってきてと看護師(口腔外科では歯科衛生士が歯科医介助をおこなわず、看護師がおこなう由)に指示を出している。

 横のユニットをみると、大きなペンチのようなもので女性歯科医が不器用そうに抜歯をおこなっている。大学病院の属性とはいえ患者が不憫である。また、今年度、卒業したばかりと思われる歯科医たちが治療室内に突っ立て所在なさげにしている。この診療室のポリシーも理解に苦しんだ。部屋から部屋に抜ける壁が三角形にくりぬいてあるのだ。動線が適切ではなく、万一、ストレッチャー等を使用する時には、取り回しが悪いだろうなと感じた。もちろん、ユニバーサル・デザインの発想など皆無である。口腔外科では、下顎の腫大等で気管を圧迫した場合、歯科医が気管切開し気道確保をおこなうらしい。これにも驚いた。歯科大学附属病院には、医科の外科を設置していない。耳鼻咽喉科・眼科・内科・精々、脳外科程度で、それは、細菌が眼や鼻、脳に及んだ場合を想定しているからであり、それなりにただしい。しかし、外科の診療科は想定していないのだ。入院という話も出た。しかし、これは一蹴。

 結局、抗菌スペクトルの問題だけで医科で点滴をしたほうがナンボかよい。X線検査・MRIの検査も固辞。抗生物質の点滴だけをしてもらい辞去してきた。歯科とはいえ大学病院である。売店もない、食堂もない。しかも、明海大学歯学部に限って言えばホームページも充分ではない。また、舌がん等にも口腔外科からアプローチするのみで腫瘍医や、放射線照射施設のない病院で口腔部・頭頸部付近の治療が満足にできうるものなのかと甚だ心許ない気持ちを抱いて明海大学を辞去してきた。定めし、この病院にかかったために、助かる命を、あたら、散らした人も多いのだろうなと思いつつ。また、僕個人的には、この病院では僕が殺されるとも感じた。さらば、明海大学。

 そういえば、自治医科大学において慢性副鼻腔炎の手術をするにあたって、ブリッジが取れたしまった際、再装着をお願いして、結果、重篤には至らぬまでも、フレグモーネを起こす原因を造ったのも明海卒の歯科医であった。

 明海大学にはまったく私怨はない。僕が体験し感じたことを素直に書いてみた。この文章を誹謗中傷と受け止めるのではなく患者の客観的意見として関係者には捉えてもらいたい。また、歯科も医科のなかに包括されるような医療機関で受診すべきであると強く感じた。大抵の病院や大学病院には口腔外科がある。今後、僕は、歯科大附属病院には行かない。どうしても行く必要があれば、医と歯が連携している東京医科歯科大や昭和大学などが適当だろうと思う。要するに医科の監督の下に高度な歯科医療を実践している病院を選択する。また、現今において、患者のアメニティの問題も看過できない。私学なら尚更である。

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蒸気機関車なら9600型

 それは蒸気機関車の王道を正しく歩んできたのである。

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指名手配犯の存在証明

 駅や街頭に指名手配犯人の手配書が掲示してある。もう、何年も逃走しているであろうキク○○子などの写真を見る度に、生きていることを所与の前提として捜査している警察の不可解を感じる。

 彼女が生存しているという確信のような、また、そのエビデンスがあるのだろうか。或いは、死体を捜索しているのであろうか。が、死体の捜索を前提とする限り指名手配という字句は馴染まない。

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問題の建て方が違うのだ

 現状の職域に留まるなら昇任は見送り。異動すれば昇任。どちらを選択するかという問いは問題の建て方というか問いが問いとして問いの呈をなしていないように感じられるのだ。僕は現今の職域において最大限の企業内貢献をしているつもりなのだ。僕が他の職域にゆくことで発生する会社のメリットは少ないと思われるのだが・・・。人事とは不思議なものだ。

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アメリカの文学における過去・現在・未来

 【ハックルベリー・フィンのアメリカ 「自由」はどこにあるのか 亀井俊介著 中公新書刊】を読んだ。アメリカ文学が呈示した最大の作品は「風とともに去りぬ」であろうと僕は確信している。もちろん、ヘミングウェイの存在も大きい。

 偏見を承知のうえで書くが、どうも、アメリカと文学は、僕の頭のなかで巧く繋がらないのだ。個人的に・・・。そして、アメリカには人文科学は馴染みにくいような気がするのだ。専ら、経済原理優先の国にあって文学的風土が醸成しにくい環境があるのではなかろうかと推論してみた。よい意味でヤンキーには文学は馴染みにくいのかも知れないのだ。

 寧ろ、ハリウッドに代表される安逸な映画の方がシックリとアメリカ人の一般的嗜好の問題としては理解できる。アメリカ人はヒーローが好きである。日本における一般的文学の様態、または、指向としてヒーローに期待する部分は些少である。

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2009年7月10日 (金)

薬剤師もチーム医療を担う大切な構成要員である

  【毒と薬の世界史 ソクラテス・錬金術・ドーピング 船山信次著 中公新書】を読んだ。この手の本は、既に多くの類書が出版されているが、大概が興味深くおもしろい。

 著者は薬剤師である。薬剤師が上梓する書籍の多くは、医師に比肩する存在者たるべくドンキホーテ的情熱を絶えず読者に訴えかけてくる。薬剤師は薬剤師。医師とその社会的地位を争っても栓のなきことであり、なおかつ、薬剤師が医師よりも薬のことを知っているのは薬学部を卒業しているのだから当たり前の理路である。

 医師がメディカルの第一進者であるとすれば、薬剤師は、どう頑張っても、コ・メディカルの一翼者であるという力動関係は変わらない。どんな藪医者でも医師は医師。優秀な薬剤師が切歯扼腕しても権限において薬剤師のそれは限定的であることは法の定めなので仕方がない。

 医師との比較のなかで薬剤師が独自のナラティブを紡ぐのは、もう、止めたほうがよい。なによりチーム医療が謳われている昨今、薬剤師も協働ということを学んで欲しいと常々、思うのである。薬剤師は薬剤師で、それは優秀であり、重要な仕事であることは所与の事実として誰もが充分に認知している。医師・薬剤師・ナースなど、どれが欠格してもチーム医療は成立しない。上掲した本を読んでそんなことを感じた。

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衛生と海軍将校

 帝国海軍の将兵において多発した疾病は水虫などの白癬菌症である。もちろん、海軍の揺籃期においては壊血病対策は喫緊の課題であった。

 それにしても潮風に長いあいださらされていると体躯がベトベトしてきてシャワーの一つも浴びたくなる。ところが、真水は艦艇において血の一滴にも相当する液体の一つであった。海軍は華々しい。しかし、体躯は不潔にして当人もキモチ悪かったのに違いないのだ。

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2009年7月 9日 (木)

船の舷灯

 美しいものだな。幻惑を惹起される。

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組織的同一性

○ 僕は慶應大学医学部の準教授ではない。

○ あなたも慶應大学医学部の準教授ではない。

○ あなたも僕も慶應大学医学部とは無縁な存在であることにおいて共通している。

○ 所詮、零細なる民間企業の使い走り。

○ 人事課であれ総務課であれ畏れるには当たらない。

○  僕らは獣医師免許を保持しているという文脈において事務系職員とは劃然と差別

   化が行われる。事務系職員は、その組織的帰属感の他に誇れるものがあります

   か?

○ 単に会社のネームバリューと配置位置 としての人事課。申し訳ないが、その程度の

  価値観を僕は笑い飛ばすのである。             

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マスコンという電車運転装置

 鉄道グッズとしてマスコンが欲しいと何気に呟いたところ、妻に、「マスコンは置き場に困るでしょ」と言われた。妻はマスコンのことを知っているのだ。夫婦も寄り添い続けるとこういう状態が発生する。

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日本語は肩凝りという現象を選れて能く表現することができる-日本語がもつ豊饒の海-

 肩凝りを表現する英語は存在しないので、欧米人は、その状態を「肩が痛い」と呼ぶ。日本人が感じる肩凝りの様態、つまり、肩の痛み・こわばり・重さの混在した状態を形容する言葉を一括して「肩がこる」という状態であると欧米人に教えると一様に納得するそうなのだ。【心も体も「冷え」は万病のもと 川嶋 朗 集英社新書】を参考。

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きょう、労苦を享けておくこと

 明日のことは明日が心配します。労苦は、その日その日に、充分あります。(マザー・テレサ)

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現象の発見学としての病理学的方法

 病理学とは、畢竟、病というフェノメノンの存在の在の確認。つまり、ザインに耳を澄ますことにある。ザインの発見能力が病理学の初歩的な構成の要素の一つになってくる。もちろん、病の理路を整然とただしく呈出することがその大要であるが、現実的にはザインの否定、または肯定という診査のためにその意を強く傾注する作業であるようにも思えるのだ。

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2009年7月 8日 (水)

宇宙戦艦ヤマトにサザエさん一家が乗艦した状況を想定する

 ○ くだらない喩えだが発想の跳躍とはそいうことを考えてみることなのだ。別次元と別次元の衝突にこそ思想において跳躍の発生が起きるのである。如何なる状況であれ僕は窮理でありたいのだ。

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アルムの樅の木よ

 心地よく響く言葉である。

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太陽が眩しい

 それが夏のエビデンスである。

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これまでそういうモノは絶対に忘失したことはなかった

 定期券・カード・サイフ・カギ・カバン等々の身の廻りの品をなくしたことがこれまでなかった。過日、クルマのセルフ給油をおこなった際、クレジット・カードを忘失した。不正使用されることがなかったのが幸いであった。

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歯は病気になるのか

 歯牙そのものがもつ非有機的な属性から歯という単体は疾病を発現することはありえないように思えるのである。

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ドライ・アイの常識

 防腐剤入りの目薬は百害あって一利なしということ。

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2009年7月 6日 (月)

フレグモーネ

 ○ 当分のあいだ治療に専念することにします。

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2009年7月 3日 (金)

矯正行政と懲罰行政としての死刑

 その法理学的関係がクリアに見えてこないのである。

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非観血的な治療のみをおこなう脳外科クリニックが存在していた

 開頭手術をしない脳外科クリニックが存在することを知って驚いたが、もちろん、そういう医療ニーズを必要とする人もいるだろう。病診連携・診診連携という形も指摘されれば確かに存在していてもおかしくはない。

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松本清張は芥川龍之介に対して批判的である

 ○ 生活感のない芥川の如きようなものは文学ではない。労働の体験こそ文学を構築する根幹をなす・・・みたいなことを松本は述べている。それは高等遊民の否定でもある。さて、文学は労働者のモノか、高等遊民のモノか・・・。僕は人間のモノであると信じているのだが・・・。文学は状況において発生するのである。

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2009年7月 2日 (木)

梯 久美子さんと読み解く激戦地硫黄島の指揮官栗林忠道中将

  【散るぞ悲しき 梯 久美子著 硫黄島総指揮官 栗林忠道 新潮社】を読んだ。栗林中将に就いての、よくできた評伝であり感服した。戦記文学として深く記念したい。

 作品を読むということは、作者とともに伴奏、或いは、伴走してゆくことであり、よい作品ほどその傾向は、猶更に強い。とまれ、女性が書いた戦記としては卓抜の感がある。

 梯さんの評伝観、要するに、評伝にも文学性が宿り、そこに小説性も胚胎することに賛意をおぼえたのだ。また、評伝と年譜は異なるが、年譜を無視して評伝は成り立たないのは当然のことわりである。

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自らの意志で死を決断した人は死なせてあげること-死の複数回性の否定として-

自殺を企図して、これを失敗し瀕死の状態にある者に対しては救命・蘇生措置を施さないほうがよい。自殺者は人生において二度も死を覚悟しなくてはならなくなる羽目になる。一命を取り留めたところで状況において大きな変化もあるまい。

 曰く不憫。自殺を遂げて死にきれないでいる者には、トドメを刺すことを、古来、武士の情とも表現してきた。会津藩において西郷頼母の妻子が自刃を図った時に武士の情けとして止めを刺したのは薩摩武士であり、その、もののふは涕泣したという。しかし、その妻子は、当時の状況に照らすと死ななくてはならなかった。それが事情というものである。

 しかし、人生の過程にある希死念慮者に就いては誠心誠意の念を以て諫止するのは人の持つ徳操の一つである。一旦、既遂してしまった者は、そのまま、死なせてあげること。既遂という一線を超えた者において、それはすべてのフェイズで手遅れとみた方がよい。

 死生観は多義的である。依って、この案文についてのコメントは受け付けない。

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2009年7月 1日 (水)

護衛艦はるさめに体験乗艦した時のこと

 数年前の話である。横須賀を母港とする護衛艦はるさめに体験乗艦した。今、ソマリアの海賊対策にあたっている由。あの護衛艦はるさめが・・・。国際治安の檜舞台に立っている。そう、護衛艦はるさめの任務なのである。そして、その任務は、貴重重篤にして極めて重い。

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手塚治虫の文脈

 手塚は、未来のメッセージというステレオタイプとして綴られる傾向が多い。その未来は現実に実現するのか。手塚が想像していた未来とは何か。その周縁事情がわからず、100年先においても、おそらく、未来へのメッセージと文脈で手塚は捉えられるに違いない。

 鉄腕アトムのようなロボットの完成をもって手塚が夢想した未来であると断定するのは余りに浅薄である。そのため、今、手塚治虫全集全400巻を読もうと計画しているのだ。未だ絶版になっていないというのが幸いである。

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農業と人文科学における相性の問題

 ○ 「農民戦没兵士の手紙」を読むと、農民兵士のその素朴な心情が吐露されているために感動をもよおす。しかし、そうした感情の喚起は都会に暮らす者による差別的偏見であると一部の農民から反発をかうことがあるという。

 ○ 民俗学においても同様の現象が発見せられ、地方における習俗の観察ないし踏査が都会人によるところの高踏的な視点として農民からの非難の対象となる場合があるのだそうだ。現在において、そういうことが現在進行形としての現象として存在しうるのだろうか。

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