カツオの刺身を生姜とタマネギのスライスを載せて食べることの快感
カツオを食べる場合、この喰い方が一番よいようだ。本来はニンニク醤油を好むのだが、口臭が翌日まで残るのでダメ。生姜ののっけ盛りが一番、おいしい食べ方と言える。カツオの刺身だけは毎日食べても飽きがこない。なおかつ、血合の部分を好物としているのだ。
カツオを食べる場合、この喰い方が一番よいようだ。本来はニンニク醤油を好むのだが、口臭が翌日まで残るのでダメ。生姜ののっけ盛りが一番、おいしい食べ方と言える。カツオの刺身だけは毎日食べても飽きがこない。なおかつ、血合の部分を好物としているのだ。
【寺よ、変われ 高橋卓志著 岩波新書】を読んだ。このままでは、早晩、仏教は衰退する旨の言説を重く受け止めた。寺には標記の識したような機能が伏在しているので、これを効果的に利用すれば、街はよくなり民度も上がるものと思われた。
ただし、この高橋(長野県松本市にある神宮寺の副住職:臨済宗)という著者は、仏教が社会に貢献する間口を拡大しすぎている感も払拭できなかった。きょうび、真言宗において、金剛界及び胎蔵界曼荼羅の左右もわからない坊さんもいる。また、お盆の時期、袈裟の姿で回転寿司で寿司をつまんでいる坊さんを見かけた時は驚きを通り越した。
東京ディズニーランドには2回ほど行った。カリブの海賊とホーンテッド・マンション、スペース・マウンテンのアトラクションは外せない。さて、【「幽霊屋敷」の文化史 加藤耕一著 講談社現代新書】を読んだ。TDLのホーンテッド・マンションの歴史的経緯を、ただしく綴った好著である。
日本という国が東京を基点としている点において、東北学も、また、東京を基始として考えるのが適当である。その昔、東京から東北の深奥たるみちのくへと最短ルートを採りこれを結ぶことが国家建設にあたり緊急の課題であっただろうことは想像に難くない。それゆえに国道としては4番目に国道4号線が敷設された。それに呼応して東北自動車道の着工時期も比較的早い。
東北本線も早い時期に整備がなされた。東北本線は、東海道本線同様に「本線」の格が与えられ仙山線や田沢湖線のような支線ではないことに注目したい。東北新幹線に就いては盛岡迄の一部暫定開業であるにせよ順序という観点からいえば山形新幹線や秋田新幹線は傍流と位置づけられる。
それは、要するに、日本という国家は太平洋側を中心として東北を捉えてきた歴史的背景を見て取ることができる。依って、山形県は秋田県は東京を基始とする限り捉まえにくい側面が確かに存在している。それは、あくまで、東京からでは捉まえにくいということであり、関西から東北を眺望する場合、逆に山形や秋田県の方が馴染み深い時期も確かにあった。
その時期とは、京都から北海道に至る北前船などの船舶交通が盛んな頃に限定されるものと考えられ、何故ならば、現在、関西から東北にアクセスする場合、距離的には日本海側経由が短距離であるにもかかわらず、東海道新幹線と東北新幹線を利用した方が利便度が遙かに高いからである。しかも、刮目すべきは、大阪ー青森間は一つの路線で繋がっていない。羽越線や奥羽本線などを経由しなければならず、唯一、青森と関西を結ぶ列車は寝台特急としての日本海号のみである。現実、時刻表ソフトである駅前探検倶楽部においても大阪-青森間のルート設定において鉄道路線を基本的には予定しておらず、航空機が首座を寡占している。
もちろん、山形・秋田県のまた由緒ただしい東北に違いなく、そして、また、そこに暮らす人には東北として括られる一つのアイデンティティがあるに違いない。東北への帰属性の自覚の有無を別にしても、この両県は、形式として東北以外の何者でもない。そして其所には、地場特有の精華としての文化が構築されているはずなのである。僕の体験として秋田・山形の両県の訪問回数は多くないが、秋田なら蘭画、山形なら出羽三山の山岳修験というようにその華を見て取ることができる。しかし、これらの県域は、奥羽・羽越の文脈として捕捉されやすい。
そうした経緯から東北の要衝や官ガの中心はやはり太平洋側に在る。官庁における東北管区○○局等の本部は大抵の場合、宮城県を中心に設置されているうえに、学問も一元的に東北大学において東北を在とする学校を睥睨している感もある。なにより東北大学工学部において西沢 潤を産んだのは東北大学の精華とも思えるのだ。
通俗的な意味での観光案内をすると次のようになるし、一見の価値は確かにある。曰く。城なら会津若松の鶴カ城。桜なら弘前。湖なら十和田湖。山なら八甲田山。半島なら下北。五重塔なら羽黒山。修験なら山形。寺なら山寺と中尊寺と恐山。武士道なら会津。絶景なら松島と北山崎。海岸線なら岩手。路線なら五能線。列車ならストーブ列車。祭りならねぶた。民話なら遠野。マグロなら大間。蕎麦なら山形(岩手県盛岡市にある直利庵のわんこそばも食べておきたい)。牛タンの仙台は謎。カキなら松島。サクランボなら山形。ハタハタなら秋田。ホタテなら青森。ホヤなら岩手。文学なら岩手と青森。高校なら盛岡一高、大学なら東北大学。民謡なら南部牛追歌。三味線なら津軽。方言の色の強いのも津軽。演歌なら津軽。海峡なら津軽。馬なら岩手。武将なら伊達政宗。医学者なら野口英世。川なら最上川。雑駁な括りであるが僕にはそう映るのである。例えば、実際に訪問して比較すると掛け値なしに猪苗代湖より十和田湖の方が絶景であることに違いない。リアス式海岸の王者はやはり北山崎につきる。しかし、本質は細部に宿ることを認識しておきたい。
東北の属性を考える時の手懸かりの一つとして第一次産業にその主資がある。日本の穀倉地帯などと呼ばれて古いものがあるが、もちろん、東北の全県が海に面しているため米だけでは東北の文化を語れない。並列して漁業もある。それは常民における山の人と海の人というカテゴライズも可能になってくる。東北は八戸港を持ちながらも、漁業が何も東北だけに特化しているようにも思えないのである。圧倒的な産業イメージとしては米である。東北は米とともにあるのであって魚とともにあるのではない
言語の東北的立場を考えてゆく作業は簡単である。各地の方言を丹念にみていっても、それは、東北訛、東北弁として直感される。確実に大阪弁とも違うし、一元的に東北弁であるという認識が可能である。津軽弁と南部弁は大きくことなるが、概ね、些末な範囲に収まる。
視覚的には、どうか。一つ一つの点そのものを構成要素として東北は成立している。しかし、点では各論的な個性が前面に表出してしまい東北を捉まえきれない。例えば、恐山の画像を以て東北とは言えないし、遠野という一点をもって東北とは断定できない。それでは、面ではどうか。先の書いた話とリンクしてくるのだが、東北新幹線に乗っていると、車窓から眺望できる風景は連続した点の集積として面として認識される。そして、東北はなるほど日本の穀倉地帯というべき景観が延々と続く。この水田の光景を以てして東北の一般的な景観とするのが妥当であることを再確認したい。国道4号線を走っている時も、新幹線に乗っている時と同様の感慨が湧く。
地形をみる。東北で一番大きな面積を持つ県は岩手である。日本から岩手県と静岡県が消滅すると定めし日本の国は小さな県になるだろうというくらいこの二つの県の面積は広い。特に岩手県は東北のなかで大陸を形成しているような気さえしてくる。また、東北本線を乗る度に思うのだが、多分、陸奥の玄関口は一ノ関であるように思う。それは、関西圏と東京圏の文化的差異について、愛知県のどこそこ付近という踏査による方法論によって線引きか可能なように、現実に踏査すれば一ノ関付近であると思えるのだ。JR東日本の仙台発の普通列車も一ノ関行きが多いのも傍証となる。
また、おそらく浅部東北と深部東北との精神的認識性のそれは大きく異なるように思える。福島県における東北性は、青森の持つ絶望的な東北性とは差異があり、或いは、また、栃木県や福島県(福島県は明確に東北であるが)の非東北的優越性に象徴されるように東北的深度には濃淡がある。その東北的深度が、東北という閾値を超えた地域、即ち、それが陸奥の呼ばれ、その地点が一ノ関なのである。そうした意味から、岩手の一部や青森県は東北とは別に陸奥という属性を保持し構造としては重層性がある。
就中、岩手は、東北的感慨を一身に体現しているような気がするのである。平均的東北像を具現化しているように感じる。福島県の関東への熱き眼差し、東北の覇者としての宮城県、どんづまりでむせかえるような、悲しいまでの東北性を具現しているため東北の本旨そのものを欠格するような青森県、日本海に面して関西との関係も大事にする山形・秋田県。そのなかで、ドーンと居住まいをただし正確に東北を体現しているのは、どうしても、岩手県なのである。
南部牛追い歌という民謡がある。あの歌を聴きながら、夕暮れ時に、岩手県のなかに敷設された国道4号線をクルマで走行している時、その寂寥感、大陸的広漠さ、心細さ、雄大さにおいて東北の雄を感じるにまことにふさわしい。4号線からは、逸れるが岩手県の陸前高田市。ここで夜を迎えた時の心細さといったらなかった。故に、僕は東北の典型的な形式としては陸前高田市を推したいのである。点としての東北は存在しないことは先にも書いたのであるが、唯一、点として挙げるなら陸前高田を僕は指定したいのだ。
遠野物語の倣いではないが、東北には妖怪がいるはずである。岩手県は、よき中国の倣いに似て掘削すれば、ぞろぞろと未知なるもの、未発見なるものが発掘されるのである。また、岩手県が醸成した人物の層の厚さは、東北屈指とも言えるし、そうした彼らは、岩手を愛し続けた。東京志向のなかにあって東北的立場を是とする者は岩手県人において特段に多いとも思われる。点としての陸前高田を指定することに無理があるのなら、少し範囲を拡大して岩手県としたいのである
学が学として存在しうる根拠は、多様性にある。多様性の分類的解釈と、その汎用化という作業において地域学は成立する。その点で地域学の先鞭をつけたのは間違えなく東北学を嚆矢とする。大阪論、京都論は存在していても、その学として歴史は、東北学のほうが古い。嘗ての中国と同様に、東北は、依然として眠れる獅子であることには間違えはなさそうなのである。しかし、眠りから覚めた獅子が中国のように傍若無人になることはありえない。そして、おそらく、今後の永きに渉って東北は眠り続けたままであるに違いないのだ。少なくとも劇的な覚醒はおきない。
【裁判員制度】証拠映像 あなたは直視できますか?
3月29日16時7分配信 産経新聞
心臓に包丁が刺さった状態を再現した3次元CG画像(東大法医学教室提供)(写真:産経新聞)
「これでは裁判員がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になる可能性もあるのではないか」
日本法医学会の中園一郎理事長がそんな懸念を持ったのが、東京都江東区のマンションで東城瑠理香さん=当時(23)=が殺害された事件の公判だった。
「捜索で見つかった肉片の一部です。真ん中のくぼんだ所はおへそです。肉片はすべて5センチ角程度に切り刻まれています」
ひときわ大きな声を張り上げる検察官。法廷に設置された65インチのモニターに次々と映し出されたのは、生々しい骨片49個、肉片172個の映像だった。
殺人事件などの証拠には、残酷で目を覆いたくなるような写真も含まれる。職業裁判官と違い、“免疫”のない裁判員は果たして直視できるのか。
最高検と日本法医学会は「証拠」の取り扱いについて、協議を重ねてきた。学会側からは、「むごい証拠写真を裁判員に見せるのはどうか」といった声も上がった。
だが、最高検は「法と証拠に基づいた立証を行わなければならない。残虐な証拠を見せなければ量刑が軽くなりかねず、遺族感情を害することになる」と反論した。
犯罪被害者支援に詳しい武内大徳弁護士は「裁判員は従来の裁判官と同じ証拠を見るべき。死体損壊事件なら、どう損壊したかが重要な証拠。裁判員は腹をくくる必要がある」と話す。
そんな裁判員裁判での立証を様変わりさせそうなのが、3次元のコンピューターグラフィックス(CG)だ。東京大学法医学教室の吉田謙△教授らは、CGを法医学に活用する技法を開発。模擬裁判などで実用化している。
米国製のCGソフトを使って臓器や傷口などを立体的に図示。刃物が実際に突き刺さり、血が吹き出すさまをアニメで再現することも可能だ。
専門学校に通ってCGの技術を習得した東大医学部4年の瀬尾拡△さん(23)は、「約3週間、150時間かけて製作した」と話す。
吉田教授は「一般人にはイメージがわきにくいところが、瞬時に見て分かる。解剖書のような血生臭さを避けることもできる」と利点を強調している。
東城さんのバラバラ殺人事件の公判で、証拠の示し方に批判が高まったこともあり、東京地裁では傍聴席に向けた大型モニターの電源をわざわざ落とすケースも出てきた。
裁判官や検察官、弁護士らだけが席に設置された小型モニターで証拠写真などを確認する仕組みだ。
これまでの刑事裁判では、遺体の写真などは傍聴人に示されず、裁判官らが回覧するだけだった。しかし、裁判員制度が目指すのは「見て、聞いて分かる裁判」。傍聴人は裁判員として将来、公判参加する可能性もある。
ある弁護士は「傍聴は、裁判が適切に行われているかどうかをチェックする意味もある。それが損なわれてしまわないか」と、本来の公開法廷の原則に沿って傍聴席にも証拠を示すべきだ、と説明する。
一方で、別の弁護士は「これまでも見せてなかったものを、裁判員になる可能性はあるとしても、ならない可能性もある一般の傍聴人に見せる必要があるだろうか」と疑問を呈する。
「まだ慣れない面もあり、検証を続けている」と最高検幹部。裁判員制度のもとで初めて公判が開かれる夏ごろまで、まだ、試行錯誤は続くことになる。
5月21日に始まる裁判員制度。裁判に対して“素人”である「あなた」が有罪か無罪を決め、量刑まで判断する。法廷で示される証拠から目をそらさないでいられるか、死刑を選べるのか、そして、自分の下した判断は揺らがないか…。裁判員の「こころ」に、制度が与える影響を探った。
★ 職業柄、法医学に対しての学問的興味として法医学書を読んでいたら、その日の夜、急性のPTSDになりました。あの症状は非常に厳しいものがあり、自殺企図の可能性さえ妊んでいます。裁判所には、馬鹿も休み休み言えと宣言します。少なくとも、裁判員制度に参画することは、納税や徴兵制度等の行為と異なり国民の義務とは明確に背理します。
補遺・・・
残酷なシーンを観ないためには眼鏡を外しておく。緘黙を貫徹することも国民ができるささやかな抵抗の一つです。
そういう認識の形式を発見した。であるとするならば、法隆寺等々の木造建造物は植物の遺骸で構築されているというわけなのであろうか。材木や木材は植物ではないような気がするのだ。
それは、豚と豚肉の関係にも似ている。とまれ、つくづくと思うのは、タンパク資源の摂取として、僕たちは死体を喰らっているのは間違いがなさそうなのである。
その力点の位置を何処に置くかに拠って人生そのものの価値というか、燦めきとか、ときめきにおいて大きな差を生じる。それを、多分、人生観と呼び、或いは、それを職業に置き換えて述べれば、職業観とでもいうのであろう。さて、ヒトの価値観とは様々な形式が存在しうる。
標記の関係は、インプットされた情報が脳内において加工されてアウトプットされる形式であり、加工の工程とは、それ、即ち、芸術化ないし表現化されるための脳内化学反応なのである。
ケミカルな領域において芸術が作出されるという点では岡本太郎の言う「芸術は爆発だ」という説は物理化学的にも近似しており、茂木健一郎がいうところの「ニューロンの発火」というのが正しいようにも思える。否、寧ろ、僕は、「ニューロンの暴走」と喩えたい。
また、ドラッグ等の影響を受けてインプットの段階で錯誤した生情報を、そのままアウトプットしただけでも芸術的な形式として成立するかも知れないだけの可能性を妊んでいるとも思われたのだ。
1月なら正月・2月なら子の日・3月と4月は午の日・5月や6月は巳の日というふうに1ヶ月に一回の徘徊がおこなわれ、その日を百鬼夜行日とか忌夜行日と呼び、人間は夜に外出してはならないとされていた。【羅城門の怪 志村有弘著】に典拠。
過日放送された週間ブックレビューは殊の外、興味深かった。僕とおないどしの岸本葉子さんがご出演ということで楽しみにしていた。
岸本さんが紹介する本は、毎回、他の合評者に対する、おもいやり、つまり、非興味分野に対する読書義務の軽減という配慮から当たり障りがない本や楽しい本を探して合評本として呈出してくる。それでいて岸本さんのセンスが横溢した示唆に富んだ本なのである。
岸本さんの推薦図書は東京ノスタルジック喫茶店というタイトルの本であった。レトロな喫茶店情報が詰まった情報本などではなく、喫茶店におけるノスタルジーを惻々と伝える好著である。また、話の端緒としての喫茶店には普遍性があり、誰にでも発言が可能な、いたって合評するには間口の広いテーマ本なのである。
それに対して、合評者Aは、現在において跳梁しているマクドナルドなどのセルフ・サービス型の喫茶店の様式が定着している現状分析の不備を指摘し考察のたりない本であると述べ、ノスタルジー的な喫茶店は消えるべき宿命にあることを当然のように述べ言下に切り捨てた。
この本のタイトルや本を読めば、そういう文脈から内容を読み解く本でないことは歴然としている。にわかに、岸本葉子さんの狼狽した様子がうかがわれた。合評者Aは度し難い馬鹿であると思った。
それに対して、合評者Bである佐高 信氏が、如何に、この本が選れているかを滔々と述べ始めた。経済方面では、一家言を持ち、常に、辛辣で、強気の発言をしているだけの貫禄が感じられ合評者Aの面目が丸潰れになるほどまでの完璧な論陣を展開してみせた。合評者Aが怯むと、岸本さんが、即、合評者Aと佐高 信さんの意見の折衷的な意見を述べてその場を丸く収めてしまった。
さて、合評者Aが推薦したのは柄谷行人氏の小難しい本である。岸本さんは合評者Aに対して優しくも合理な意見、即ち、マルクス・キリスト教・共産の関係から柄谷行人氏には興味があると好意的に感想を述べた。しかしである。佐高 信氏は怒らすと恐ろしい。この本は一度読んだら、次は読む気がしない本であると斬って捨てた。合評者Aは、どもり乍ら柄谷行人と佐高さんとは思想的立場が異なるとして正面対決を避けた。
週間ブックレビューの放映趣旨は、「最近、こんな本を読んだけど、おもしろかったよ」という形式をとるものであり、それに対して「そうかぁ、僕には少し難しいかも知れないけど、教えてくれてありがとう」という気持ちが番組の底流にないと、それは観ていても、必ずしも愉快にはならないのだ。
飛び込んだ蛙が一匹なのか複数なのか。そういうことに欧米人は興味を持つのだそうだ。確かに、英語やドイツ語に訳すと冠詞の選択と語尾変化という問題が発生してくる。一般に飛び込んだ蛙の数は複数であることが定説になっているのだそうだ。
手塚治虫という漫画家は、神についてそう言わしめた。何故、神は残酷な存在なのかを漫画的立場からは深く掘削せず、考究する立場としての文学で遠藤周作は、「沈黙」という作品をつうじて一つの解答の形式を示してみせた。ことほど左様に文学には思惟こそが構成動因の一つとして考察しなくてはならない場合もある。
その顔に惚れ抜いた。アルコール依存症者として喧伝されることも少なくない開高氏だが、それを含めても開高の魅力は余りあるのだ。開高氏の歴程は顔が如実に語っている。偉魁、偉傑と表現できる程までに剛胆なのである。
○ 非炎症性に微熱が出たり高熱を発したり。それは家系のもつ遺伝学的なクセであるに違いないのだ。それにしても、ジャンポール・サルトルが葉緑素アレルギーであったというのは本当か。そもそも、葉緑素アレルギーというのがわからないのである。
とまれ、ムシムシと暑くもあり、エアコンの除湿モードが全開であるため体感的には寒いようでもあり気持ちが悪いのだ。そういえば関節などの疼痛や、体躯一般の倦怠感を感じる。それらの不定愁訴は季節のせいだ。季節を動因とした不定愁訴。それは、脆弱乍らの太宰的病質を感じるのである。尤も、太宰など僕は大嫌いなのであるが・・・。
知人のJR東日本の車掌曰く。「JR貨物は給料水準が低い」。あれほどの激務をこなしているJR貨物が東日本に比較して給料が安いという話を聞いて些か驚いていた。同じ鉄道事業体でありながら噂になるほど迄にJR貨物の賃金が低廉であることはにわかに信じがたいのだ。
上記のように標榜している【光の曼荼羅 日本文学論 安藤礼二著】を莫大な期待値を傾注し乍ら読み進めてゆくこととした。早速にも、昨日買い求めて来た本である。この作品は第3回大江健三郎賞受賞および第20回伊藤整文学賞(評論部門)受賞している。
文学の言葉は死者たちの言葉であると断じきった者の作品が文学賞を受賞したことは当ウェブサイトの管理人としても感慨深いものがあり、再々に渉ってテーゼとしての死を扱って来たことに改めて運営方針の方向性について諾とするものと感じているのだ。
【魂の古代学 問いつづける折口信夫 上野 誠著 新潮選書】を読んだ。この本は逆さ文学史的手法(時系列の方向を逆に辿る技法)がとられているために、とても読みにくい。柳田国男も理解できなかったというマレビトの概念の把握については、さらに別著をあたろうと思う。
逆さ文学史的手法を採用した著者の勇気には最大限の讃辞を送ることを厭わないのだが、「魂の古代学」というタイトルも些かその意味において不明瞭である。「民俗学でいう魂とは何か」というテーマと、「古代学における魂とは何か」という問いかけにおいての魂の二重構造が発生するためテーマが重層化してしまうのである。また、古代は歴史学が専ら注目する分野であることから、副題がついていなければ、この本は折口の本であるものとは判断できないのが普通である。もちろん、折口の偉業は民俗学というカテだけに収納しきれないだけのボリュームがあることは承知しているつもりではいる。
よくよく吟味をしないで買った本である。書名は本の内容を顕す一つ例として呈示しておく。しかし乍ら、折口の周縁的事象に就いては極めて興味深く読めた。
【貧民の帝都 塩見鮮一郎著 文春新書】を読んだ。明治期を中心とした貧民救済の歴程をただしく辿った本である。それはとりもなおさず、東京養育院の歴史的経緯そのものであった。
現今の経済状況下、または、小泉純一郎の悪政の結果、如何なる態様を示す組織、又は、個人において貧民を救済するという発想は皆無に等しい。小泉チルドレンも行き場がないとか。宜なるかな。
「兵士に聴け」・「兵士をみよ」・「兵士を追え」という三部作というべき著書を上梓して、自衛隊を、ただしくルポルタージュした杉山氏の【自衛隊が危ない 小学館101新書刊】を読んだ。
「・・・が危ない」であるとか「・・・力」というタイトル名の本は、馬鹿馬鹿しいので、普段は、一顧だにしないのだが杉山氏が書いた本なので読んでみた。そもそもが、杉山氏の本が、小学館101新書のような聞いたこともない新書のラインナップに収載されるはずがないことから、緊急にも提言したいことがあるのだなと判断した。杉山氏が問題にしているのは、案の定、元航空幕僚長の田母神発言の件であった。
前記の「兵士シリーズ三部作」が自衛隊を好意的に捉えているのに対して、今著は、田母神発言に触発されたとしても、総論としては、自衛隊を批判的な視点から捉え直している点は興味深い。
如何に田母神が小器であるかを詳らかにした本書は、総論としての自衛隊批判を措いても一読の価値は充分にある。また、ここで展開されている自衛隊批判とは、自衛隊が内包する膿のなかからの必然として生まれた田母神という徒花の発生過程を検証するために必要な理路を踏むために必要とされる傍証であるものと理解した。
【心霊写真 -メディアとスピリチュアル ジョン・ハーベイ 松田和也訳】という本を購入した。出版社は由緒ただしい青土社なのである。何故、こんな本を買って読む気になったか。読売新聞の書評欄において精神科医の春日武彦氏が推奨していたから読む気にもなった。
出版社に照らしても良書には間違いがないしメディアとスピリチュアルというタイトルも意趣をそそる。しかし、これは、電車のなかで読むことを避けて自宅内で読むことにした。死んだら終わり。それが簡潔明瞭でよろし。
秩父鉄道に導入されたレトロ調の「リバイバルトレイン」 秩父鉄道(本社・埼玉県熊谷市)は創立110周年を記念して、かつて主力列車として活躍した「100形車両」と同じ肌色と小豆色のレトロ調の「リバイバルトレイン」1編成を導入した。
同鉄道は「上武鉄道」の社名で1899年、東京に設立され、1916年に秩父鉄道と改称。80年には本社を熊谷市内に移転し、現在は羽生―三峰口駅間(約72キロ)で列車を運行している。
100形車両は1950年10月~88年6月に運転され、1編成が三峰口駅構内の同鉄道車両公園に展示されている。
今回導入するリバイバルトレインは、現在の主力列車「1000系車両」を、かつて同社のオリジナルカラーだったツートンカラーに塗り替えたもの。
(2009年6月10日07時11分 読売新聞)
☆ 写真撮影には是非とも行こうと考えている。
東京江戸博物館が開催されている標記の企画展を観覧してきた。僕は「鉄腕アトム」の時代の申し子という世代ではない。寧ろ、幼児期の記憶としては「リボンの騎士」のほうが釈然としておりアトムのことはほとんど知らないのだ。
長ずるに及んで、「ブラックジャック」に魅了された。また、「火の鳥」の気宇壮大なテーマには文学をも凌駕する可能性が漫画にあることを感じた。加えて、「人間昆虫記」や、「ユテラテの樹」、「きりひと賛歌」、「アポロンの歌」などの子供向け作品以外の漫画にも惹かれた。また、「アドルフに告ぐ」以降の作品群こそが手塚作品の要諦を為していると思えるのだ。なお、手塚氏に就いてはデパートの企画展で氏が執筆している様子を、高校時代に一度だけ見たことがある。熱烈な手塚フリークだった頃である。
殊に、ブラックジャックは何度も読み返した。この作品から発せられる名言は多い。「人が人の命を左右できるとおもっているのかね」・「医者ってなんだ」・「神さまとやら、あなたは残酷だぞ」など・・・。
唐突乍ら、手塚治虫と北杜夫の両名。この二人は就いてはどうしても比較してみたくなる。両者は世代的にも近いうえに昆虫にも造詣が深いのであるが、それよりも、寧ろ、大阪大(専門部)や東北大学医学部を、それぞれに卒業した後、医学博士を称号とし乍ら医師という共通の経歴を持ち、表現を手懸かりとし乍らも進むべき方向が漫画、或いは、文学へと逸れていったことはまことに興味深い。この二人を並べてみた時、漫画と文学の差異について考えさせられもする。
確かに、漫画には表現における成熟点に限界があり、或る位相を超越することが困難なのである。而して、文学は成熟における到達点が漫画とは別の形で設定されているが、それを以て、どちらが高尚であるとは断定し難い。しかし乍ら、刮目すべきは、漫画に詩学を導入した、つげ義春、または、つげ義男の存在がある。その路線を承継している漫画家、または、漫画の文学化を為した漫画家に就いて僕は無知故に知らないのである。多分、つげが、文学という軸についての漫画からの漸近線を画いてみせたに留まるのでないか。
また、表現者として宮崎 駿も歴として存在しているが、氏はアニメというカテに括られる。宮崎は手塚に関して必ずしも肯定的でなく辛辣で慇懃無礼な態度を堅持しているが、その辛辣さを以て自己を辛辣に批判せよと宮崎には言い返しておく。
僕自身、漫画も、一時期において相当読み込んできたつもりではいる。しかし、最後には、結局、文芸に逸れるのは何故なのであろうか。それは僕の脳のクセなのであることにしておく。
手塚が為した偉業を集大する時期において逝去したのはまことに残念であった。享年60歳。窮理に対する可能性を妊んだままの死であったと思えてならない。天才の早すぎる死は一つの罪悪に他ならないのである。
それにしても、両国という街はお相撲さんがたくさん歩いており粋な風情を感じる。駅も威容として威厳がある。昼食は、深川丼のぶっかけメシを博物館内の食堂で食べたが美味であった。さすが江戸東京博物館。博物館内のレストランは不味いと相場が決まっているが、東京江戸博物館のそれは上品においしく典雅でさえあった。7階にあるこのレストランからは、父が転校した2つ目の高校が見えた。父の転校歴は凄まじいものがある。それも祖父が国鉄に生きてきたが故。
京都に憧憬するのもよい。しかし、当地から至近距離に江戸文化が息づいていたのである。今後は、江戸文化をも興味の射程内におさめるものとした。
【岸 信介 -権勢の政治家- 原 彬久著 岩波新書】を読んだ。岸 信介とは、どういう人物なのか、そして、何をしたのか知りたいので読んだ。
巷間、岸は妖怪と呼ばれて久しいが容貌も、ぬらりひょんに酷似している。否、ぬらりひょん像は岸の容貌を参考にして作出されたものに違いない。
東京帝大に入学した頃の写真が掲載されていたが、美男子である。秀才にして天才というのは岸のような人物を指すのであろう。一向に政治むきのことは不調法であるが、岸の天才を知りうる一冊である。本当に賢い人は軍人など目指さないことを知った。
それを考えると思考停止になる。ヒトは消費者でもあり生産者でもある。こういう役所を設置することを浪費者庁というのである。今現在において喫緊にも必要な省庁とはとても思えないのである。
寂聴の筆致はさすがである。そして読ませる。なんとも作家であることを今更にも思い知る。「奇縁まんだら 瀬戸内寂聴著 画 横尾忠則」を読んだ。瀬戸内が奇縁の嚆矢としている人物が島崎藤村なのである。藤村に逢ったことのある人なんてそうそういるはずがない。長生きをするとは、そういうことだ。瀬戸内寂聴もなんだか妖怪じみてきた。
ま・ま・ま・ま・まさか、海軍兵学校卒だったなんて。驚天動地なのである。もちろん、氏は、今現在もラジオにおいて長寿番組を持っており、それは「小沢昭一の小沢昭一的こころ」として結実している。その心は艶福にして慧眼、そして、ユーモアの感覚は、永く、聴く者の心を捉えてやまないのだ。
【就活のバヤカヤロー 石渡嶺司・大沢 仁著 光文社新書】を読了した。僕は就職活動をほとんどしたことがない。気がついたら何となく今の会社に入っていたという感じである。昨今の就職事情を俯瞰するに、現在の学生さんにはお気の毒と申し上げるほかにその感慨が見あたらない。
「大切」と「親切」は、倶に重要な言葉であり、なお、それは、よいおこないである。この単語のなかに共通して使用されている漢字は、「切」。「親」を「切って」其れ親切とは、これ如何に・・・。「大」を切って「大切」とは、これ如何に・・・。
細胞に高熱を加えると、抗ストレスタンパク質のヒート・ショック・プロテイン(HSP)が産生されてダメージを受けた細胞の修復機転に参与する。また、アポドーシス誘導をする場合もある。
日本には湯治という慣習があるが、古来より、患部を温めることが重要な治療の要目の一つであることは、生理学的な機序に適った智慧ということができる。【心も体も「冷え」は万病のもと 川嶋 朗 集英社新書】に典拠。
【パーソナリティ障害 矢幡 洋著 講談社選書メチエ】を読んだ。著者自らが本文で、「パーソナリティー障害の入門書は多いが、そのなかで決定版となることを目指して書いた本である」というだけに、確かに平明に解説されてあり興味深く読めた。
この本を嚆矢として、パーソナリティ障害にアプローチすることができたのは幸いであった。要するに、この本と僕は相性がよいのである。
【戦国武将の死生観 篠田達明著 新潮選書】 を読んでみてその理由の一端が理解できるような気がした。彼らはあの世にこそ全ての価値体系をおいているようなのだ。
この本の著者の本業は医師である。病死した戦国武将の病名について考察している点でも一層の興味が喚起された。
【戦争体験の戦後史 世代・教養・イデオロギー 福間良明著 中公新書】を読んだ。学徒兵の遺書ともいえる「きけ、わだつみの声」を底本にして、その毀誉褒貶と戦没学生の戦争責任にまで論及した本である。
戦没学生の、どの部分に戦争責任があるのかと言えば、彼らはインテリジェンスを持ち合わせていながら戦争を回避できず、寧ろ、逆に、消極的であるにせよ戦争に加担したというのが責任追求派の骨子である。加藤周一でさえも、そうした論陣を張っていたことには驚く。
著者は、その当否の感慨を述べているのではなく、そういう議論もあったことを中心に据え論説が紹介されてゆく。
嘗て、立命館大学において「わだつみ像」が全共闘に依って破壊されるという事件が起きた。戦没学生の戦争責任、また、自己批判されるべき大学教員世代の涕泣の対象としてのシンボリックな像は否定されなければならないという愚考のもとに蛮行が行われたことに対して強い憤りを感じる。
戦没学徒兵の戦争責任を問うという発想は今までの僕にはまったく無かった発想であり、あの美しい魂の結実である「きけわだつみの声」を他人事として受け止め、なんとも無慈悲な感慨を持つ者がいることに、少少、驚いた。
東京裁判では、上官の命により捕虜を殺害した兵までも戦争責任を問われたが、これも酷である。その延長線上で学徒兵に対して同胞たる日本人から戦争責任を問うのも無理があると思えてならないのである。そして無慈悲である。この本では、別途、わだつみ会の変遷・岩波書店などもキーワードになってくる。
「愛犬家連続殺人」2被告の死刑確定へ…上告を棄却
6月5日15時17分配信 読売新聞
埼玉県の愛犬家ら4人が1993年に相次いで殺害された「埼玉愛犬家連続殺人事件」で、殺人と死体損壊・遺棄の罪に問われ、1、2審で死刑判決を受けた元ペットショップ経営・関根元(67)、元妻・風間博子(52)両被告の上告審判決が5日、最高裁第2小法廷であった。
古田佑紀裁判長は、「猛毒を飲ませて中毒死させ、死体を切断して山や川に捨てた犯行は、冷酷で悪質極まりない」と述べ、両被告の上告を棄却した。両被告の死刑が確定する。
判決によると、関根、風間両被告は93年4~7月、ペットショップの顧客で、犬の売買を巡ってトラブルになっていた埼玉県内の会社役員の男性(当時39歳)ら3人に、猛毒の硝酸ストリキニーネを詰めたカプセルを飲ませて殺害した。
関根被告は同年8月にも同じ手口で同県内の主婦(同54歳)を殺害。両被告は4人の遺体をいずれも切断、焼却して捨てた。 最終更新:6月5日15時17分
この二つの事象が現在において人心の癒しをもたらしているようだ。だから、愚にもつかない、そして、猫にとっては甚だ迷惑な、それは、虐待と言ってもよい猫駅長なるものを人間が考えだし商業ベースに載せているのだ。猫駅長など可愛いという感慨よりも痛々しいという想念を覚える。
所詮は1800CCのエンジンなので加速性能は充分であるとはいえない。昔日において山岳走行を想定して加速性能を重視した時期もあったが、結局、山岳走行する機会は多くはなかった。今現在、納車までに6ヶ月待ちの状態だそうだ。妻もプリウス購入に大きな関心を示している。
特に、大学人には、文系理系を問わずに読んで頂きたい本である。【大学の誕生(上) 帝国大学の時代 天野郁夫】を読んだ。それ、重厚長大で新書の歴史に燦然と輝く一冊(下巻も併せて二冊)になるであろうものと想像された。
僕個人としては、ここまで精緻な大学史の知識を必要とはしていないが本書が歴史的意義を持つ労作とされることは論を待たないものと思えた。
過日、当webサイトに、到底、看過することの出来ない悪質なコメントがつきました。こうしたコメントを駆逐する手段としては、単に削除するだけでは有効な対策とはなりえないと考えた結果、当webサイトへのコメントは認証制に変更することにしました。
すべてのコメントは一元的にメールという形で僕の許に届きます。それをチェックした後にwebサイトに反映させるというシステムがそれです。もちろん、こんな方法など採りたくありませんでした。
知古であり信頼している友人の皆さんのコメントはすべて、即、スルーとするのは当然の措置なのですが、システム上、それが出来ないようなのです。その点に関しては大変に申し訳なく身を切られるような思いがします。
その点に就いて、どうかミーシャ様、そして、元T様、その他、適切なアドバイスやご意見を頂戴した皆様には、ご理解を頂きたく伏してお願いを申し上げるところで御座います。
今回の変更は、当然、乍ら、異論を排除することが目的ではありません。僕に過誤があれば非を認めますし、指摘されて教えられる部分も大きいと思っています。ソクラテスの考え方の一つに産婆法というのがありますが、対話の中から事実が掘削されるという側面も確かに存在します。一人相撲はあくまで一人相撲であり、それは井の中の蛙と同義です。
本来は、設定を変更したことを予め書いておくべきでした。しかし、諸般の事情から後手に回ってしまったこと、なおかつ、早速にも、コメントを頂いたミーシャ様にはご心配をかけてしまい申し訳ありませんでした。お詫び致します。
なお、ミーシャ様から呈示された東北の件は、別途、熟慮してお返事したいと思います。東北的なるモノを見事に体現しているのが岩手県であるという僕の直感に変更はありません。が、それは、直感であるため、まったく論拠がありません。もう少し、岩手県や東北全般のことを考えてみますので、期限なしで考える時間を頂戴したいと思います。また、東北に就いて考えながらも、記事の更新は、随時、行ってゆく予定でいます。
昨日は、甚急性に風邪様の症状が発現したため、職場に行ったのち、直ちに帰宅して横臥していました。幸いにして今日・明日は休日なので横臥して過ごそうと考えています。
【皇軍兵士の日常 一ノ瀬俊也 講談社現代新書】を読了した。講談社現代新書は、その伝統において、岩波新書・中公新書に並びうるバリューを持っておりその歴史は、新潮新書よりも遙かに古いものであると記憶している。
しかし、書籍の装幀が劇的に変化してからは講談社現代新書の前で足を止めなくなった。なにか、とても本を選びづらくなった印象と違和を感じるのである。
さて、この本。【学歴・階級・軍隊 高田里惠子著】と共通項が多い。どちらも興味深く読ませてもらった。比較せよというのなら高田のほうが着眼点等々を勘案すると選れているというのが読後感である。
【骨壺の話 水上勉著 集英社】を読了した。嘗て、天台宗の貫主・今東光が水上勉を評して、良寛なんて書ける才なぞ無いと喝破していたが、それは別としても、書名と内容の乖離において著しい感のある本である。
骨壺造り、大いに結構。だから、興味を惹かれて読んでみたのだ。しかし、よくよく考えれば、骨壺が如きものに意匠を凝らしても仕方があるまい。水上勉は免疫学者・多田富雄にも似て老人固有の嘆息を露骨に表現したがる。
なお、また、その、老人のエゴのようなものは城山三郎からは一言も発せられていない点で人の持つ人品骨柄というものを強く考えさせられた。もちろん、山折哲雄にしても老いの感慨を否定化した発言は一言たりとも為していない。
翻って、僕なぞ、一刻も早く翁になりたくて仕方がないのである。誰其れ誰其れ100年後には、地球人の構成員は、ほぼ、全員が入れ替わっているのだ。それも、シャッフルでなく、総取っ替え。素晴らしい現象である。
15歳の愛猫に標記の如き腫瘍様の病変を確認したので、念のため、猫の専門病院を受診させた。生検はせずに診断結果はOB。嚢腫の類であろうと診断されて安堵した。
経験則から来る診断名の賦与が、例えば、臨床の知である。本来は、バイオプシーをしなければ正確な診断名はつかないはずなのであるが、それを行わずに診断を為した点において臨床の知が明確に発見される。
非炎症性のマスがあれば、一応は腫瘍を疑ってしまうのは僕の脳のクセである。いずれにしても限局膨張性で悪質なものでないと思っていたが、小動物の先生のお話を聴いて安堵した。なお、口裂を境として上部の口唇が好発部位であるとか。そいうことも、即ち、経験則から来る臨床の知なのである。
様々な哲学者が様々な哲学を展開してきたのが哲学の歴史である。それに対して反対意見や対立命題は必ず存在する。要するに哲学者とは言葉を武器として言いたいことを言いたいように主張しその状況は百花繚乱の感がある。
不断に、哲学の営みは読み解くように理解されるが、それは、哲学の学であり、それ、即ち、哲学学である。本来、考えることを哲学という。哲学者としてあらんとするには、哲学学を基礎知識として(必ずしも基礎知識を持っている必要などない)考えると姿勢を堅持することにある。
様々な哲学的立場があるが、やはり、「存在とは何か」という問題に事象は収斂し、それは自己、即ち、自我とは何かという問題に帰結し、それは、畢竟、死の問題に直結するものと考えられた。
膨張宇宙を想定する以上、宇宙の果てには何かが存在する。空間認識としては三次元。これに時間を加えて四次元。さて、宇宙の果てとは何か。科学的にはもちろん、詩学としても認識しえないのだ。 しかし、この絶対領域は神の領域ではない。人智は及ばないが、絶対的存在として存在しているわけなのであるから。存在の二重性とも表現するべきか。
小野篁は平安初期を代表する文人であり、小野小町の祖父とされている。伝承の世界では、篁は、毎晩、冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていたという。
六道珍皇寺の境内の焔魔堂には小野篁と閻魔の木像が並んでいる。庭には、冥界に通った死の井戸というのがある。【羅城門の怪 志村有弘著】に典拠。
☆ 一度、訪問したが何の変哲もない寺であった。近くには、六波羅蜜寺がある。
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