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2009年5月

2009年5月31日 (日)

生きていることは千日回峰行である

 そういう定義をすれば、生も辛いものでなくなる。さて、後、何回、比叡山の周辺を回峰したらよいのだろうか。生きている限り回峰し続けなくてはならないのがこの世の倣いである。それを免責される者は誰一人いないのだ。

 

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新型インフルエンザの発生は社会医学的な現象であることから行政的な文脈での解釈が優先されるべきである-脅威を正しく国民に伝達するための手段としてのパフォーマンスの了解妥当性、及び、一介の公務員たる検疫官がそれに対して云々すべきではないこと、加えてそれを云々したい木村盛世さんは立場としての厚生労働大臣であらねばならないこと-

「機内検疫はパフォーマンス」検疫官、参院予算委で批判 (読売新聞)
 28日午前の参院予算委員会で新型インフルエンザ対策などに関する集中審議が行われ、参考人として出席した厚生労働省職員で羽田空港の検疫官、木村盛世氏が米本土などからの旅客便を対象に一律に行った機内検疫を「(政府の)パフォーマンス」などと批判した。

 木村氏は、政府の当初対策が機内検疫による「水際対策」に偏りすぎたとし、「マスクをつけて検疫官が飛び回っている姿は国民にパフォーマンス的な共感を呼ぶ。そういうことに利用されたのではないかと疑っている」と述べた。さらに、「厚労省の医系技官の中で、十分な議論や情報収集がされないまま検疫偏重になったと思う」と強調した。

 一律の機内検疫は政府の新たな「基本的対処方針」で22日に終了したが、木村氏は「現場としては大して変わっていない。今もかなりの労力をかけて検疫を行っている」と指摘した。木村氏は民主党の要請で参考人に呼ばれ、同党の鈴木寛氏の質問に答えた。[ 2009年5月28日14時22分 ]

★ 医系技官のなかには行政の運用について正しく理解していない畸形が時折、出現する。「お役所の掟」を書いた宮本政於も厚生省検疫課長の職にあった。医学的に正確であろうがなかろうが所詮は厚生労働大臣に隷属する者であることを忘れてはならないのが、この国の仕組みなのである。

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相互リンクの件

 sirubeさんとのお約束どおり相互リンクを張る時期が来ました。しかし、テクニカル上の問題で上手くリンクが張れません。張れるようになったら張らせて頂きたいと思いますので、暫し、ご猶予を下さい。

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ネクタイ着用は虚礼である

 ネクタイは社会的には必要なツールであり、ただしく常識を持ち合わせた社会人であることの証左としてネクタイは存在している。しかし、ネクタイ着用は、煎じ詰めれば、シンボルとしての価値しか存せず、それは大いに共同幻想じみているのである。

 であるからこそ、僕は高価なネクタイは絶対に買わないことにしているのだ。とりあえず社会の倣いに照らし首から垂れ下がっていればよいものと心得ている。

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事象を語るために必要な哲学的語彙と心理学的字解の相違点

  【臨床と言葉 心理学と哲学のあわいに探る臨床の知 河合隼雄 鷲田清一共著 阪急コミュニケーションズ刊】を読んだが内容において希薄であった。事象をポンと一つそこに抛り出し、それを心理学ではこう呼ぶ、哲学ではこう呼ぶという浅薄な議論だけが先行し期待していた程の知的興奮を得ることが出来なかった。

 鷲田の哲学エッセイは愉快である。しかし、僕は、どうも河合隼雄との相性が悪い。氏がユングに関しての泰斗である以上、どうしても、河合の言葉で表現されるユング像に触れておきたいのだが一向に進展しないのだ。そもそも心理学と相性が悪いのか。

 嘗て、人類の知的遺産シリーズという全102巻の全集が刊行されて、それは、古今東西の思想家が一堂に会したが如き壮大な企画出版であった。高校生であった僕には、到底、これらすべての本を入手して読み解くことなぞ不可能であった。この手の全集は、僕が知る限り2回の企画出版がなされており、つまり、2種類の「人類の知的遺産シリーズ」がある。ともあれ・・・

 しかし、折角か偶然か人間として生まれてきて、これだけの思想や知の耀躍を前にしてその全貌とは言わぬまでも、こうした知の一端を知ることなく呆けたことに時間を費やすことは、勿体ないと強く感じたものである。

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2009年5月30日 (土)

分解と解釈と理解と智慧-解剖学的な視点から動因される知について-

 既存の事象は分解されてから初めて理解されるものである。それ、即ち、解剖的な営みと酷似している。解剖から得られた知見が解釈されて理解となり知として結実する。

 当サイトでは、文献学的な立場から死に迫る試みを模索している。その動因を読書に求め、その読書体験とは解読されるために言葉が一旦は分解されなければならない宿命のもとに曝されなくてはならないと考えている。

 臨床の言葉なぞ呆れるほどに存在していないことを知った。そこで、当サイトを「解剖室」と改名することにしたのである。

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2009年5月29日 (金)

納棺夫の苦悩

  職業に貴賎はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は無残である。【納棺夫日記 青木新門著 文春文庫】に典拠。

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2009年5月28日 (木)

小林秀雄先生の謦咳にふれたような気がした

  【小林秀雄先生来る 原田宗典著 新潮社】を読んだ。原田さん作品はおしなべて滑稽である。ユーモアのなかにも抑制がきちっと作用しているのが原田ユーモアの特徴である。

 上記の本の舞台は青森県鯵ヶ沢である。その方言もなんだか温かくて飄としており、うん、原田ワールドだなとも感得した。

 余談だが、哲の女、池田晶子は小林秀雄を師と仰いでいた。そういえば、ほぼ、30年前の装幀のままで書店に小林秀雄全集が並んでいる。価格は一冊が2000円。破格ではある。しかし、今現在、集中的に小林秀雄を学ぼうという気持ちはないのだ。

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羅城門とか羅生門のこと-それは何所にあったのか-

 【羅城門の怪 異界往来伝奇譚 志村有弘著 角川選書】を読んだ。それは平安京・平城京の正門として朱雀大路の南端に位置していたのだそうだ。その読みは「らいしょうもん」または、「らいせいもん」と読む。現在では、門の跡しか残っていない由。

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2009年5月27日 (水)

養老孟司と茂木健一郎の脳を比較してみる

  【生きて死ぬ私 茂木健一郎著 筑摩書房】を読んだ。脳という文脈では、先ず、この二人を俎上に載せなくてはならない。

 素直で話に拡がりがあるのが茂木健一郎であり、クールで解剖という一定の条件下で話を進めているのが養老孟司であるような気がした。養老孟司は、解剖刀を返す刀で社会をも腑分けしているのである。他方、茂木健一郎の話は確かに小難しい点もある。

 脳を手懸かりとして仏教のほうから参加してきたのが、玄侑宗久であり、また、南 直哉であるとも言えるのである。それは学際的な拡がりと言ってもよい現象であり、宗教としては仏教ならばこそである。キリスト者には唯脳論のような話は馴染まない。

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2009年5月26日 (火)

死生観の変更を強力に迫る池田晶子-その入門書として-

  【人生のほんとう -迷わない惑わせられない- 池田晶子著 トランスビュー刊】を読んだ。これまでにも池田晶子女史のことは、当ブログでも再三、取り上げている。

 上記の本は池田死生観とも池田死学とも表現できる池田哲学をやさしく自解したものとして好著である。ともあれ、この池田女史が解き明かす死生観に触れなかったら、死とは僕のなかで咀嚼されない謎であり、なおかつまた、怖いものであったに違いないのだ。

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ブロガーとしての自己は何処を探しても存在していない-開設2年目を迎えるにあたり-

ご覧のように現実の在としてのこの僕はブログの体裁を模して言葉を記入するという作業をしている。

 古くから、ネットをつうじて知り合った方たちとの意見交換は別にしても、基本は僕自身の勉強のためである。ブログ的手法を採用しているのは、単なるレンタルサーバとしての機能を期待しているためであり、情報をネット上においておけば少なくともデータは消失しにくい所以に依る。

 そのレンタルサーバーに保存してある内容が他人様からも見えてしまうというのがブログというツールの致命的欠点なのである。こういうと身の蓋もないが、読んで頂くための文書を書くほど僕は暇ではない。それと、もう一つ。ニフティでブログ様の形式を興しているのは自己ブログ内の検索機能がついているためである。

 例えば、過去に吉田松陰のことを書いた。吉田松陰は、どういう人物なのかとネットで調べてみてもピンとこないのである。であるからこそ本を読んで、アブストラクトを自分なりに作っておく。それが、当サイトの形式なのであり、それは試験前のメモみたいなものなのである。

 本当に必要な情報は自分で本を読んで調べたほうがよい。そして自分の頭で考えてみること。少なくとも僕はそうしている。当サイトにおいて認識・事実・感興等々において過誤があっても、それは僕の誤認であり、この記事群のサマリー的な一文を以て正確であるという担保を僕は誰にも与えていない。故に誤字脱字があっても一向に気にしないのだ。

 仮に、これがブログであるとしても、本当に読んで頂きたいのは正確にリフレクトして頂けるかたや僕と感性を共有できるかたのみを対象としている。検索地域ランキングを表示しているのは、そういうお仲間が、主にであるが、何処に局在しているかの証左なのでである。

 僕はブログが嫌いである。この知のマスをブログだなんて軽薄な言葉で一括されたくないのだ。このブログという形式を採用しているため、債務として月1000円をプロバイダーに払っている。自分の知の涵養、表現方法の掘削。その自習する場の利用料としてはまったく安いものなのだ。それが当サイトを開設して2年目にあたる現在の感興として綴る。

 ☆ ミーシャ様・元T様をはじめ、意見こそ頂戴しないまでも毎日、福岡・北海道・茨城等々の地域から好意的に閲覧して下さっている皆さんには、今後ともよろしくお願い申し上げます。今後とも良質で正確な知と感覚を届けたいと思っています。今後、このサイトは名称の変更こそあれ、僕が生きている限り消滅することはありません。これまでは、サイトを立ち上げては消し、立ち上げては消しの連続でしたが(笑)

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2009年5月25日 (月)

診断名 血栓性外痔核

 昨日から肛門周囲に痛みを感じた。起立位で鈍痛を感じ脱肛感があった。そのため、昨日は、ほぼ、終日、横臥していたのだが、本日、肛門科を受診。診断名は標記のとおりである。ヘモナーゼの内服と軟膏の塗布で経過を観察することになった。重篤な痔疾ではなくてよかった。

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松谷みよ子さんの現代民話考という本を予約した

  標記の本は絶版になって久しいと思っていた。ちくま文庫として収載されていることは知っていたが、それさえも絶版になっていると信じ込んでいた。が、まだ、その命脈は健在だったようで、何とか入手できることになった。松谷みよ子女史のライフワーク的な労作である。ただし、分冊の販売を行っておらず、全12巻の一括購入が条件となる。もちろん購入することとした。

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2009年5月24日 (日)

新型インフルエンザ感染防止対策としてのマスク着用の意義

 感染者が第一義的にマスクを着用することは当然のことである。が、しかし、季節性インフルエンザの倣いに似て、おおよそ、インフルエンザウイルスは乾燥という条件下でその跳梁を許している。

 僕は、喉や鼻腔の保湿という観点から新型インフルエンザフリーであってもマスクを着用している。加えて、今期、口唇が乾燥してかなわないのだ。それにしても、オークションでマスクが高値を更新しているとか。厭な時代になったものである。

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元虎ノ門病院眼科部長の経歴をもつ老眼科医は人品骨柄に選れていた

  人間的な深みという言葉がある。それに職業的な要素を混淆して医師はおしなべて深い哲理を湛えた顔をしていると指摘したのは哲学者の池田晶子である。それは、必ずしも普遍妥当的な事実ではないが池田がそう指摘しているからそうなのだろう。僕はあくまで池田の死生観を堅持するのだ。

 最近、極度に視力が落ち、慢性的に白目が充血しているので当地に開院した眼科医院を受診した。この開業医の経歴が途轍もなく凄いのである。肩書きとか経歴が、ただしく、その人品骨柄を反映している場合もあるのだなと感じた。無口であるが、まさに、噸石の如き重厚さを湛えていたのである。媚びず諂わず高踏的ではあるが、患者の示す礼には礼乎としてそれに応えてくれる。なにより、眼科にかける情熱が伝わって来るのである。虎ノ門病院医師ネットワークの会員証が待合室に掲げてあった。

 この医院には、眼底三次元画像解析のための機器がある。これは、視神経の周りにある神経線維層の厚みを測定出来るので、懸念している緑内障の診断には有力なツールになるのだそうである。結果、左側の神経繊維層が基準域から逸脱し、痩せているとのこと。次は視野狭窄テストを受けることになる。

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2009年5月23日 (土)

今年のJR東日本大宮総合車両センターの公開も活況を呈していたのであろう

 ○ 今年は敢えて行くのを取りやめた。もちろん、新型インフルエンザを配慮してではなく、何となく気乗りがしなかったのだ。行けば、鉄道グッズを購入してしまう。そうした収集癖とも訣別しようと思ったゆえに依る。

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新型プリウスをみてきた

 そろそろ、僕の乗っているクルマも買い換えの時期が来た。少なくとも、来年は、車検の時期であるがゆえにクルマの買い換えを考えなくてはならない。

 俎上の乗るのはプリウスかなとも感じている。印象としてはホンダのインサイトよりは良いなと感じたのであった。

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NHKで放映されている名曲探偵アマデウスは選れてよい番組である

 筧 利夫氏が演じる名曲探偵こと「天出臼夫=アマデ・ウスオ」というネーミングが先ず、笑える。楽理に就いて精通していたら、僕のクラシック音楽鑑賞の方法も相当に深みを湛えていただろうにと残念な気持ちが沸いてくるのだ。

 そういえば、中学校二年の頃、音楽の時間にギター演奏を課題として与えられた。僕の今後の人生においてギターが大きなウェイトを占めることがないと考えて授業などサボっていた。現実に今でもギターが弾けないことを恥とも感じていない。ともあれ、その結果、音楽教師に通信簿で1をつけられた。

 幼少期を家庭で過剰なほどの音楽的環境に恵まれて育ったなかで、それをフイにしたのは僕の不明に依るものであるが、別段、それを後悔しているわけでもないのだ。

(参考)

http://www.nhk.or.jp/amadeus/

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卵かけご飯が流行っているのだそうだ

 それも時代である。日本では食習慣として当たり前の卵かけご飯だが、嘗て、米国の映画ロッキーでシルベスター・スタローンが卵をのむシーンにあたり、映画会社から危険手当の支給を要求しそれが認められたそうだ。なおかつ、スタローンは、保険にも入ったというのである。

 僕はと言えば、卵かけご飯を食する習慣はない。それは衛生的な見地からではなく単純に、ご飯にモノをかけるという行為が嫌いなのだ。納豆を毎朝食べているが、納豆は別の器に取り、納豆をご飯にはかけては食さない。

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2009年5月22日 (金)

川柳-大型液晶テレビ編-

 ワイド画面 猫より大きい 小鳥かな

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2009年5月21日 (木)

熱型の診断学的意義

 標記のことを僕は軽く考えていた。例えば、マラリアでは、三日熱マラリア・卵形マラリアは48時間おきに熱発作を繰り返すのに対して、四日熱マラリアでは、72時間ごとに発熱がある。因みに、これとは別に熱帯熱マラリアというのがあり、これは、熱型としては、24時間~72時間のインターバルで発熱を繰り返し、最も、前期4種類のなかでも最も重篤なタイプとされ、発熱が現れてから、5日以内に治療薬をのまなければ、マラリア原虫が寄生した赤血球が脳内の毛細血管に詰まり血流障害・意識障害・昏睡状態に陥り放置しておけば確実に死亡する。

 マラリアについては、現在でも、アジア・アフリカ・中南米を中心に年間、270万人の死亡例が報告されているのだそうだ。

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pathologyはpathologyとしてただしく病理学に反映されなくてはならない

  瞬間的に口を突いて出た言葉だが、僕がなした言葉としては一つの窮理とも言える表現であったような気がしているのである。こうした言葉は、10年に一回出るか、出ないかの言葉の成果であった。

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2009年5月20日 (水)

生と死は膠着する

 そうした状況も、おそらく存在し、そこは、病棟において発現している可能性が究めて高いのだ。或いは、また、それは、慢性疾患のような体躯上の問題として認識することもできるのである。

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横須賀憲兵隊長某陸軍少佐が海軍少将井上成美を指して貴公と呼んだことに対して井上が応えて曰く

  おい、君は少佐だろう。私は少将だ。少佐のくせに少将を呼ぶのに「貴公」とは何事だ。海軍ではな、軍艦で士官が酒に酔って後甲板でくだをまいていても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼するんだ。海軍に無礼講はない。

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2009年5月19日 (火)

死んだ人の数

 有史以来、死んだ人の数も確実に存在するのだが、それをカウントすることはできない。カウントしようとする人もいない。しかし、僕は、そういうことが気になって気になって仕方がないのだ。本来は、一桁まで正確に出るはずの数字なのだ。

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沈没して海底に眠る船舶の数

 その数は正確に存在するのであるが、正確にカウントすることはできないしする者もいない。有史以来、一体、どのくらいの数の船舶が海底に沈没しているのだろう。

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日野トラックまたは日野製のバスに付いていたウイング・マーク

 そのウイング・マークをつけた車輌をめっきりとみることができなくなりました。

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この世の中で途轍もなく恐ろしいもの

 今、仕事の必要に迫られて、この世の中で一番、怖いものは何かということに就いて考えている。地震・雷・火事・親爺の喩えも陳腐であるし、実感として、惻々と伝わる恐怖とは何かという命題について考えるのは、実に難儀なのだ。

 おそらく人が一番、恐ろしいという考えにも共鳴できるのであるが、何か茫漠としている。改めて考えてみた場合、それほど、たいした恐ろしい恐怖というのは現状、僕には、そう、想定しえないのだ。おそらく、恐怖とは事後発生的な感覚として処理されているからなのであろう。恐怖を具象化して、これは、これよりも恐ろしいという問題の立て方に無理があるのかも知れない。 

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早朝坐禅は凜とした体験である

  早朝坐禅-凜とした生活のすすめ 山折哲雄著 祥伝社新書】を読んだ。如何にも山折さんが書いたという温かみが伝わって来る一冊である。しかし、山折さん。少し手抜き工事をしましたね。(微笑)。そこも、山折さんらしくてごご愛嬌なのである。

 坐禅という高踏的な立場を一端、放下し、日常性のなかに【坐禅のようなもの】、つまり、疑似としての、また、体験としての坐禅を奨めている点では、特段の評価できる。そういう自己流の禅を、【野狐禅】とか【生禅】と呼ぶらしいが、それは、それでも結構。一日のなかで一人になって考えることは人生の豊饒を喚起せしむるのだ。

 僕はといえば、早朝に起床して、30分程度のあいだを茫とするのを旨としている。その時間帯での思考的感度は鋭であり、なおかつ快なのである。

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2009年5月18日 (月)

済洞(臨済宗と曹洞宗)を論ずることなかれ

  標記の言葉は、蘭渓道隆の言葉である。矛盾や謎を覚悟して生き続けてゆくことを修行と呼ぶなら、我々は間違えなく同参の修行者なのです。【同時代禅僧対談〈問い〉の問答 南直哉 玄侑宗久著 (玄侑氏から発せられた言葉)】に典拠。 

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2009年5月17日 (日)

哲学を窮理に究めようとすると発狂するという言説に対する評価

 池田晶子が、しばしば、哲学のもたらす危険性、則ち、窮理に事象を突き詰めてゆくと発狂するという言葉を頻用していたが、それは大袈裟だなと思っていた。しかし、おそらく、それはただしく正解であり、発狂を回避するためには、屹点を設定し、そこから先に踏み込まないことが肝心であると思われた。僕。哲学科で学んでいたとしたら、とうに発狂していただろう。

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情報は疾く伝達される

  昨日のアクセス解析をみたら異常な現象が発生していた。海外渡航歴のない神戸の高校生が新型インフルエンザを発症したことは報道を通じて知っていたが、具体的な高校名までは知らなかった。マスコミが高校名を発表したのは夕刻のように記憶している。また、もちろん、発症した高校生の在学する学校名まで知る必要は少なくとも僕にはないし、そういう記事はブログには馴染まないと感じている。

 しかし、13時頃から「新型インフルエンザ 兵庫高校」という言葉で検索をかけた人が多かったらしく、結果、当ブログに多くのアクセスが集中した。実名で報道されたのは、時系列のなかで神戸高校が先で兵庫高校はその後である。一体、兵庫高校と新型インフルエンザのあいだに如何なる関係があるのか推測はしてみたが、それは憶測の域を出るものではないのだ。

 新型インフルエンザのことは当ブログでも警戒を要する状況として注視しているが、危機感を煽ることのないよう、記事として取り扱う時には最大の配慮をしてきた。他方、僕が、想い出の一つとして大切にしている兵庫県立兵庫高校は、旧制神戸二中の伝統をくみ、少年Hを上梓した妹尾河童を輩出した学校であることも書いた。

 要するに、この二つの記事が検索にヒットしてきたものと考えられるが、その偶然性に驚いた。兵庫高校と新型インフルエンザは別次元の現象である。罹患者そしてご関係者諸氏に対しては、ただただ、衷心よりのお見舞いを申し上げ早期のご回復を祈念するのみである。

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2009年5月16日 (土)

妊婦と新型インフルエンザ

 そのへんの情報も欲しいところだ。また、タミフルやリレンザの投薬は妊婦または新生児に禁忌ではないのか。或いは、安全なのか。新型インフルエンザについては様々な想定が予想できるのだが、どの問に対しても科学的エビデンスがない点において辛いのである。

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さいたま地方検察庁を正義の府として位置づけそこで立ち働く検察官を尊敬していた

  さいたま地方裁判所には頻繁に傍聴に出かけた。検察官の鋭い舌鋒にはかねがね敬愛の念を感じていた。が、今回の痴漢事件で甚だしく僕は落胆したのである。職業倫理に照らして「それは絶対に許されないこと」は歴然と存在するのだ。

 その一線を越えた事柄は犯罪性の有無にかかわらず涜職として糾弾されなくてはならない。さいたま地検の検事さんたちは選れて怜悧。そして冷静な集団であると共感と尊敬の念を感じていただけに残念なことであったのだ。

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自分勝手な労働組合から撤退するべきものかと思案せざるを得ない

 百年の一回の大不況なのだそうである。位階こそ低いが、如何に企業業績が悪いかぐらいは僕にも充分に察知できるし理解している。そんな状況下、挙ってボーナス削減反対闘争を展開しているのは僕の常識的理解の外にある現象なのだ。

 元来、僕は左派を推していない。お世話になった人に誘われたので、行きがかり上、組合員になっているが、そろそろ引き際なのかもしれないと感じている。労働組合も労働者の権利である。しかし、権利意識が嵩じると会社そのものを自滅させかねない。御用組合でも困る。組合が強すぎても会社は滅びる。倒産したら路頭に迷うことになるのだ。

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1300歳の阿修羅像は聡明な少年の顔をしながらも含羞をたたえて困惑していた

  奈良には何度も足を運んでいる。いわゆる南都六宗の御寺を巡礼するためである。当然、興福寺も訪問した。が、興福寺は、猿沢の池に映える五重塔ばかりが目立ち、他にはほとんど観るべきものがないのが不思議であった。

 その理由は、伽藍がはっきりとしていないためである。おそらく興福寺も拝観料を取りたくても取れないのだ。現実に、寺域は公園のようになっているだけで地元のファミリーが手弁当を拡げて遊んでおり、寧ろ、微笑ましいのだ。

 阿修羅像と呼ばれる仏像は奈良にあることは知っていた。しかし、当時は、その名称も知らず、何処の御寺に収蔵されているのかも知らなかった。が、偶然、興福寺の寺域内をとおりすぎようとした時に、彼が其所にいることを知った。収蔵館のようななかにチンマりと収まっていたのだ。

 奈良において律たる名刹であるはずの興福寺は、度重なる火災のため多くの建造物が焼失したまま、現在に至り、そこが、あたかも公園のようになってしまっているのは、伽藍を構成する建造物がほとんど存在しないためなのだ。今時、興福寺建立1300年に当たる。その記念事業の一環として興福寺中金堂の復元にむけた浄財確保対策事業を策定して本展は企画されたものらしい。

 東京国立博物館に到着したのは、金曜日の朝十時三〇分である。にもかかわらず、五十分待ちという大盛況ぶりには些か驚いた。前回、開催された臨済宗系の博覧では、その教義等々が不立文字として認識されているため、偶像たる仏像の展示がほとんど無かった。そも、臨済宗や曹洞宗等の禅を基本とする宗派では基本的に仏像を必要としないのだ。前掲のとおり、文字としてさえ成立しない、いわゆる、不立文字の境地からみれば、仏像が必要であるわけがない。因みに、大英帝国博物館展では二時間待ちという状態であったと記憶している。

 さて、阿修羅像である。訪れているかたの多くはご婦人である。平日なのでそれも宜なる話である。八部衆であるとか十大弟子等の仏像は、まさに室生寺のそれを彷彿とさせた。なかでも異形中の異形は、迦楼羅立像であり、その顔面は鶏を模しているのだ。が、この手の異形の仏像は既に観たことがある。また、こうした仏が存在するのも想像力において了解は可能なのである。

 しかし、修羅に関しては、唸った。彼を表現する言葉が見つからないのだ。それが造られた発想の原点も理解できない。謎の一つは、あの少年の含羞を湛えた顔貌の不思議である。そして腕が六つあること。そして鴇色の色彩。その表象とするものは僕の理解を大きく超えていた。それにしても、阿修羅像の周りは多くの人が蝟集しさながら満員電車に乗っているかのようであった。

 カタログを買った。相変わらずの高価である。装幀もこれまでになく布張になっていた。しかし、使用している紙の品質が従前のものと比較して、やや、劣っている。装幀がよくても美術書としての側面を持つカタログ本文の紙品質が落ちたのでは本末転倒であるとも思えた。

 また、海洋堂製作の阿修羅像のフィギャーが人気を博しているとか。僕も買い求めたかったが会場限定バージョンのものは既に完売状態であった。東京国立博物館の仏教系の博覧で如何に人気な仏像であっても、それがフィギャーとして販売された例を僕は知らないのだ。尤も、近くの東急ハンズにゆけば手には入るのだが、改めて買いにゆく予定はない。

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2009年5月15日 (金)

商品名 ボイルホヤを魚のデパート吉池で買い求めた

 山内という名称の会社が販売している食品である。窮理に美味しかった。そのため記録として残すこととする。添加物は使用せずに腸を抜いて塩だけで調理加工がなされているのだ。

 吉池には長門 勇さんに似ている店員さんがいる。最近では馴染みになってしまった。そういえば、今春はタコの卵を食べず終わってしまった。

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あたりまえのことを考える哲学として仏教は存在する

 仏陀が弟子に執拗に死後の存在に係わる有無を問われた時、終始、【無記】という態度を貫き通しました。

 要するに解答を留保したわけです。如何に、悟り云々という文脈で仏陀が深く死後の世界について想いを致しても回答なんて浮かんでくるはずがありません。それは仏陀も人間であったからです。南 直哉流に言えば、死後の世界を断定すれば、そこで表現の系が閉じてしまいます。

 キリスト教では明確に天国とか地獄を謳っていますが、現状、キリスト教からは道徳律においてしか得るモノはないと僕は感じています。

 死後にも世界が存在したら僕は厭ですし迷惑な話です。人生は一回で充分という理由から最近では唯物論を信奉しています。二度も三度も人間稼業はしたくありません。といいますか、将来、如何なる存在での自分も厭です。例えば、石にだってなりたくありません。石は死なないというのがその理由です。

 ここで僕が言う信仰とは、要するにご挨拶のことです。事象のただしい理非曲直や存在の不思議を問う仏教の姿勢は、まさしく哲学でありそれは哲理の上でも下でもありません。

 ただ、僕は、日本に生まれて民俗学的に仏教の影響を受けて育ちました。仏様は畏敬すべき存在だと習いました。多くの日本人も、また、そうした心象形成を基盤として何気なく宗教を捉えているのだと思います。教理教説における道徳律が、正しく、古いモノへの畏敬が念こそが僕の信仰の形なのです。なお、老婆心ながら、仏を前にした観察とは何かというと医学でいう解剖学的態度であり、信仰とは解剖に付帯する感情的な想像力です。

 新型インフルエンザが一定の終熄の方向に向かっているようです。それと仏教とは何も関係がありません。疫病に対して護摩を焚く時代でもありますまい。しかし、脳科学者の茂木健一郎氏のいう偶有性には一抹の不思議を感じています。ありがたいことや嬉しいことを体得するには自助努力に拠っても実現が可能です。しかし、自分では、どうにもならないこともあります。

 自分では、どうにもならないことは、自分で、どうしようとジタバタしない覚悟。それを仏教は窮理に教えているにすぎません。良寛さんも言っていますが、「死ぬときは死ぬがよろし」であります。じゃ、「御主、篤い信者なれば救済致し申そう」というのは非仏教的な幻想です。

 当たり前のことを当たり前に思う感性とその常識化。「へぇ~、この仏像は、なにかい、天平の時代に出来たものなのかい。そりぁ、凄いこった。鑑真和尚の頃だ。そういえば、天平の甍を読んだっけな」というのが素朴な感動の到達点として信仰は、存在しているものと思われます。

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阿修羅展を鑑賞するために東京国立博物館へゆく-仏との機縁は必要な時に訪れるものであり、それは鑑賞を超越して信仰となる-

  東京国立博物館で開催されている標記の博覧にでかけることにした。新型インフルエンザの発生により人混みを避けることが賢策と考えていたのだが、H1N1型の新型とされるインフルエンザの正体も、なお、一定の警戒を要するものの、ある程度の様態がみえてきたように感じている。

 それにしても、仏との機縁は不思議なものだ。仏を鑑賞したいと思う時、その必要な環境の潔斎(今回の場合では、新型インフルエンザに対する危機意識の合理的な減衰)を為してくれる。それは、大きなはからいの一つとして認識され、また、それは、偏に、仏の持つ力といってよい。それが、鑑賞から信仰に至る動機としての機縁の一つにもなるのだ。今、仏に大きな【託し】を胸に戴きながらも、マスクを着用して仏に会いに行こうと思っているのだ。

 宗教と医学は、ただしく、手を携えてゆかなくてはならない。どちらが突出してもダメなのである。時に宗教に重きを置き、時に医学に加担する。僕は、そういう立場を今現在において採っているのだ。なお、本日は、祝日出勤の代休日として指定した。

 祝日はただしく休むのが本来。それが状況の合理に照らして不可能なら代休を取る。金銭での補填を望むのは仕事の理(ことわり)に著しく背理することになりかねない可能性を、その職業特性という文脈において一抹の危惧を感じているのだ。

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2009年5月14日 (木)

臨床の言葉

 すべての言葉は、畢竟、臨床的であると直感したので、近々にも、当ブログ名を【臨床の言葉】へと変更します。

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任天堂DSで心電図の勉強をする時代なのだ

 たとえ、コ・メディカル者にターゲットを絞った商品であるとはいえ、なんともはや、そういう時代なのだ。なにか、トホホという感慨において夥しい。

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陸軍戸山学校軍楽隊合唱による「婦人従軍歌」を聴く

  やはり、僕において標記の「婦人従軍歌」は医療の原点のような、しかも、コスモポリタニズム、或いは、ヒューマニズムの発露の歌として感得でき、しかも、そこに看護という美しいも気高く崇高な営為を感じうるのだ。

 陸軍戸山学校合唱のために音源は古く、そして、また、合唱に参加している人たちも壮烈な戦死を遂げたと想うと不思議な感興が沸き上がってくる。とまれ、その合唱には抑揚がなく、当時の軍歌合唱の様子が理解できる。実は、そうした一声・一声が音源としては貴重な価値があると思われるのである。

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2009年5月13日 (水)

生命の一回性を肯定する

 生命が輪廻転生などしたら生きてゆくことは限りなく辛い現実になる。人生は一回。死んだら終わり。そういう唯物的な思想に共感する。如何なる人の人生においても、労苦を伴わない人生はあり得ないのだ。

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欧米における相補・補完・代替医療(CAM)の周縁誌

  チャールズ皇太子の支援のもとで、特に、ホメオパシーについての研究がイギリスでは進行している。スピリチュアル・ヒーリングの一つである手かざし療法が公的保険の対象にもなっている。←[注 本当か。僕個人としては到底、驚きを禁じ得ない]。

 ドイツでは、全国の医学部でCAMが必須科目となっており、医師国家試験にも出題されているが、CAMは医学的エビデンスの点では確かに乏しいと【心も体も「冷え」は万病のもと 集英社新書】の著者である川嶋 朗医師も指摘している。 

☆ 病も気からであるとするならば、その治癒機転を賦活するのも、また、気の仕業なのであろう。

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2009年5月12日 (火)

仏教書を読んで興奮した

  【同時代禅僧対談 〈問い〉の問答 南直哉 玄侑宗久 依成出版社】を読んだ。まさに窮理な対談であった。この本は僕のなかで深く沈潜してゆき、今後も大切な一冊になるであろう。

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2009年5月11日 (月)

感冒とは何か

 冒を感得する身体の状況であるとも表現できるのだ。それに染まる時、則ち、それを感染症という。大概の感染症は感冒様の症状に端を発するものなのである。

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ヤンキーという文脈で語られる一群の若者たちが存在していた

   【ヤンキー文化論序説 五十嵐太郎編著 河出書房新社刊】。精神科医の春日武彦氏が書評で推していたので読んでみたが書名に比してコアな内容であった。

 迷惑・グロテスク・悪趣味・奇矯を体現していた者たちへの鎮魂と郷愁がまったくないわけでもない。彼らは、一体、何処に消えてしまったのか。もちろん、それは、加齢とともに今現在においてよき市井人として社会の一翼を担っているに違いない。

 ところが、彼らの拠ってたつ精神性のようなものが、どのように、現在に承継されているのかは不窮の謎であり、やはり、消滅したとみるのが正しいような気がする。どうやら、その精神性は、渋谷におけるチーマー等々とも微妙に異なるようであり、絶滅危惧種から絶滅へと至ったものと推定する立場もある。

 他方、その精神性は一貫としており表現型の差異とも了解できるのである。嘗ては、女子高生には、スケバンなどいう者が存在し、スカートの丈を奇矯なまでに長くして歩いていたものである。逆に今の女子高生のスカート丈は異様に短い。が、これは、【カワイイ文化】の延長線上にあるような気もする。そして、それは、反抗の表象としての機能を充分に担っていないのだ。

 暴走族のバイク・特攻服・改造車両・レディース等々は、少なくとも、僕には奇矯に映ったのであるが依然として興味深い現象であり、それは、解剖学や病理学でいう一つの畸形との遭遇体験にも酷似していた。

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2009年5月10日 (日)

光化学スモッグが発生する状況下における対インフルエンザ対策としてマスクを着用すること

 大きな違和感がある。通年の通念としては理解の外であったことが、現実に惹起したのだ。それにしても、夏季におけるマスクの着用は苦しい。他方、季節型インフルエンザの時期的崩壊という解釈の可能性もはらんでいる。

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 今年の漢字一文字を清水寺の坊さんが揮毫するとした場合、それは、【疫】となるだろうと思われる。

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検疫法に基づく停留命令を受けた場合の休暇取扱措置

 年休扱になるのか、病休になるのか、特別休暇になるのか。如何。各企業体においては喫緊にも決定しておくべき項目の一つである。新型インフルエンザに限らず、今後、怒濤のごとく海外悪性伝染病が入ってくるのは避けられない一つの現実であり事実なのである。

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文脈のなかで語られる新型インフルエンザ

 其れ則ち、疫病にして伝染病なのである。概念としては、感染症と徹底的に区別されなければならない疾としての直感性がある。斯くほどに日本語は豊饒なのである。

 他方で、感染症の【感】の文字の来歴は何処にあるのかと尋ねられたら、【感冒】の【感】の相当であると考えているのだ。

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2009年5月 9日 (土)

病理学とは何か

  これは精神病理学でも同じであるが、そも、病理学とは、病気の成り立ちを研究する学問であって【症状】のことは病気の本質と関係がある限りにおいてしか問題にすべきではないのである。【臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために 木村 敏著】に典拠。

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2009年5月 8日 (金)

緊急事態が発生した時こそ医療者は身を挺して働かなくてはならない-公衆衛生に寄与する企業者としての僕自身への自戒と覚悟として-

舛添厚労相、診察拒否には適切指導を=河村官房長官は職員激励
 舛添要一厚生労働相は6日午後、江利川毅事務次官ら同省幹部との会議で、新型インフルエンザ感染の可能性の低い患者が医療機関から診察を拒否されるケースが相次いでいることについて、「診察拒否は医師法違反であるので、社会的義務としてきちんと対応してほしい」と述べ、適切な指導に努めるよう指示した。また、会議に同席した河村建夫官房長官に対し、成田空港などで「機内検疫」に当たる検疫官が不足しているとして、自衛隊の医官増員などを要請した。
 一方、河村長官は、連休返上で新型インフルエンザ対策に従事する厚労省の職員を激励した。河村氏は「日本が(感染者)ゼロという状態のまま続くとは思えない。国家の危機管理の重要課題として国を挙げて取り組む」と述べ、水際対策や国内で感染者が発生した場合の拡大防止策に万全を期す考えを強調した。(2009/05/06-15:28)

 ★ ただしく感染を防御していても、なおかつ、感染症に罹患したのであれば、それは仕方のないことだ。

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格差は常に存在していたしこれからも存在する

 格差は単なる格差ではなく、その都度、「格差問題」として提起される。格差論は、その語られざる前提として「格差は存在すべきではなく、直ちに廃絶されるべきである」
として人口に膾炙されているが、格差の様態は標記の態様として存在する。

 格差はなくならないし、無くせない。格差を取り扱う場合、「格差が社会に壊乱的要素をもたらさないように扱う」という点にその要諦がある。【昭和のエートス 内田樹著】
を参考。

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ホスピスについて哲学者も考えた

 【ホスピス 命と癒しの倫理学 小原 信 ちくま新書】を読んだ。依然としてホスピスの領域は難題が山積である。著者のいう助死者という観念には強く共感できるが、大筋において、この人はホスピスを人文科学的な側面から強く捉えようとしすぎている。

 ホスピスに限らず、周縁の事象ともいうべきものは、自然科学はもちろん、社会科学的にも均質に考究されなくてはならない。もちろん、以前にも述べたとおり、僕はがんに冒されても徹底してホスピスにゆくつもりはないのだ。

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2009年5月 7日 (木)

任天堂とかマクドナルドの跳梁と跋扈

  現今の経済状況下、マクドナルドやユニクロが人心の歓心を得ているのは理解できる。しかし、任天堂が怪気炎を上げているのは、なかなかに理解できない。それも時代ということなのだろうか。

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今時の新型インフルエンザも記憶化されて脳に収容される

  同世代意識とは「記憶の共有である」。【昭和のエートス 神戸女学院大学文学部教授 内藤樹】に典拠。

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仏教における早慶の両雄

若き血に玄侑宗久あり、また、都の西北に南直哉あり。両雄、その宗旨を別にするもその法話はただしく興味あり。

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海軍大将井上成美の理路

  軍人が平素でも刀剣を帯びることが許されており、吾々が、また、その服装を誇りとしおるのは、一朝事ある時、その武器で人を斬り、国を守るという極めて国家的職分を果たすからである。然し、その一朝事であるか否かは国家が決める。

 即ち、[戦争]と国の意志が決定し「さあ、やれ」と統帥権の発動があってはじめて軍人が敵を殺すことが許されるのである。統帥権の発動もないのに勝手に之を以て人を殺すような不法なことをすれば名誉ある軍人は忽ち殺人の大罪人と化し神聖な武器は殺人の凶器となることを悟れ。

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2009年5月 6日 (水)

祝日出勤ができるということ

 それは、会社、活況にして安泰。また、登り龍の様態を呈しており誠に慶祝とすべきことなのだ。仕事がないよりも遙かに幸福なことであると認識しなければならない。社員は皆、一蓮托生也。

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獣医学系雑誌二冊

 昔、「家畜診療」と「臨床獣医」の二冊を定期購読していた。久々に「臨床獣医」誌を定期購読しようと思い立ち調べてみたら以外と価格が高い。昔は、もう少し安価であったような気がするのだが・・・。

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マザー・テレサはユーモアのセンスも抜群であった

 一九七六年。マザーは、カナダで行われた「国連居住環境会議」の席で、貧民のおかれた状態を極めて深刻に述べたのち、笑いながらカナダのトルドー首相に「あなたが、もっと質素なものを着て、粗食にすれば、国民もそれに従って、多くの人が救われるでしょう」と述べた。トルドー首相は、肩をすぼめてみせると会場は爆笑に包まれた。

 また、南カリフォルニア大学の、体重100㎏を超える或る教授は、「そのお腹の脂肪を貧しい人にお返しなさい」といわれて、グウの音もでなかったという。【イエスを愛した女 マザーテレサ アンセルモ・マタイス著】を参考。

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「司法には絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して欲しい。私がこの手で犯人を殺します」と光市母子殺害事件の遺族である本村 洋は記者会見の席上で咆吼した

  一審の判決で被告人は無期懲役という予想された結果であったが、極刑を望んでいた本村洋は落胆し憤懣やるかたなく「犯人を殺す」と記者会見で言い放った。担当した検察官は、判決に対して「こんな判例を残してはいけない」と怒りに声を震わした。

 他方、当日、ニュース・ステーション出演のため機上の人になった本村に対して、記者会見を観ていたスチュワーデスが「お昼の記者会見を観ました。これは、この飛行機に乗っているスチュワーデス全員の気持ちです。頑張って下さい」と述べ、小さなお守りを差し出した。
 
 当時、首相であった小渕恵三は、異例中の異例な発言をした。曰く「無辜の被害者への法律的救済がこのままでよいのか。本村さんの気持ちに対して政治家として応えなければならない」。結果、それが「犯罪被害者保護法」・「改正刑事訴訟法」・「改正検察審査会」の制定に繋がり、犯罪被害者が法廷で意見陳述が認められる契機になった。

 「犯人をこの手で殺す」と言い放ったにもかかわらず本村には、多くの共感が寄せられ、大きな一つのムーブメントとして結実した。【なぜ、君は絶望と闘えたのか 門田隆門著】
を参考。

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2009年5月 5日 (火)

母性の充実した発現者としての市原悦子さん

  風の又三郎の朗読を新潮CDシリーズで聴いた。朗読は市原悦子さん。彼女のご活躍は、既に「漫画 日本昔話」というアニメのなかで結実しているが、その本性は豊かな母性の表出にあると思えた。おそらく、昔話と幼児・子供のあいだには一定の相関があると思われ、僕自身の幼少期においても母から、寝入りばなに子守歌代わりに昔話を話してもらった経験がある。

 桃太郎・かちかち山等々の作品は、おそらく、子供の頃に通過儀礼として母親経由でその内容を知るに至る成長過程の機転の一つであると思われ、なおかつ、河合隼雄も心理学と昔話の関連性にかかわる論究をすすめている。とまれ、母性と昔話には一定の連関性があり、その横溢を市原悦子に見いだすことができるのだ。

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地下鉄サリン事件は自衛隊の戦記としても心に深く刻んでおくべきである

  【地下鉄サリン事件戦記 出動指揮官の戦闘記録 元陸上自衛隊第32普通科連隊長 福山 隆著 光人社刊】を読んだ。事件なりテロなりを一括集束した本は大概においておもしろいものだ。この本もその例に洩れない。

 サリンという猛毒を敵としながら、陸上自衛隊普通科連隊の化学物質の除染活動はまさに未知なる敵との戦いであり、隊員たちの恐怖感は想像に難くない。如何に陸上自衛隊化学学校の応援・バックアップがあったとしてもである。

 自衛隊は、もちろん、警察、消防は命を張るのが業務の特性である。死ぬのが厭なら転職するしかあるまい。職業倫理というのはそういうものだ。僕もまた、対微生物という点で、そういう仕事を選択した。或る意味、仕事中に死んでもやむを得ないと覚悟は、とうに決めている。

 職業には選択の自由という属性がある。その属性があるからこそ徹頭徹尾、職業に対して誠実な態度を取り続けなくてはならないのだ。

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橘かおるさんとは、一体、誰なのであろうか

 鯉のぼり

瓦の波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおる朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり

僕、幼少期の頃、上記の「鯉のぼり」という歌を聴いて、橘馨という名前の女性がいるものとおもっていた。

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直球勝負の対談を為した南直哉と茂木健一郎に拍手を送りたいのだ

 【人は死ぬから生きられる 脳科学者と禅僧の問答 新潮新書】を読んだ。なかなかたいして興をそそられる一冊であった。対談集がつまらないのは、最初から予定調和的なところがあり、「それ、違うでしょ」という意見が表出されることが少ない点にある。

 ところが、この本は相手の考えに対して非を鳴らすところでは厳しく応酬している点で高く評価できる。南直哉もいたずらに恐山の院代を努めているのではないなと感じた。また、努めて関与を避けてきた茂木健一郎の確かな知見にも唸った。今後、両人の発言からは眼が放せないものを感じた。

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2009年5月 4日 (月)

コアラの白血病も心配だが牛白血病も激増しているという状況-レトロウイルスの脅威-

  国内コアラの9割がウイルス感染…白血病・リンパ腫の原因
4月11日8時35分配信 読売新聞

 コアラの白血病やリンパ腫の原因とされる「コアラレトロウイルス」に、国内で飼育中のコアラの約9割が感染していることが、京都大ウイルス研究所と日本動物園水族館協会の調査で明らかになった。

 人には感染しないが、コアラにとって数の急減など深刻な危機につながると懸念される。

 野生コアラは豪州北東部系と南部系に大別される。ウイルスは北から南へと感染が広がり、今では北東部系のほぼ100%が感染している。このため、同研究所の宮沢孝幸准教授らが2007年から国内9動物園のコアラ全62匹のうち50匹の血液検査をした。

 その結果、北東部系は39匹すべてから、南部系も11匹中4匹からウイルスが検出された。感染源は不明だが、豪州からの輸入前に感染していた可能性が高い。このウイルスは生殖細胞に侵入して子へ受け継がれるため感染防止が難しく、日本生まれの38匹のうち36匹が感染していた。 

最終更新:4月11日8時35分

★ 同じレトロウイルス系で問題になるのは、いわゆる、ネコエイズであるが発生状況は、どのように推移しているのだろうかというのが喫緊にも心配になる。

 また、牛白血病はおそらく家畜保健衛生所が家畜衛生の立場から、また、食品衛生の立場からは食肉衛生検査所の獣医師たちによって排除にむけての努力がなされているはずである。そんなことが獣医学雑誌には書いてあったのだが、概して、微生物の世界では、一体、何が起きているのであろうか。

 僕の参与すべきフィールドではないが、学問的には気を留めている。

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地球温暖化によって日本に土着する可能性の高い感染症

 デング熱も有力である。媒介動物はヒトスジシマ蚊であり、本州~沖縄に生息している。いわゆる、ブレークボーン・フィーバー(骨折熱)と呼ばれるほどに関節等の部位において激痛を主徴とする。海外渡航歴のある日本人で、毎年、三十人近くの感染例がある。また、ヒトスジシマ蚊という文脈では、チアニング熱も挙げておかなければならない。【パンデミック 小林照幸著】を参考。

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中学生と真摯にむきあうアンジェラ・アキさんにも感動した

 【拝啓十五の君へ アンジェラ・アキと中学生たち NHK全国音楽コンクール制作班・編 ポプラ社】を読んだ。アンジェラ・アキに拠る「手紙」という歌には僕も共感をおぼえる。

「人生のすべてのことに意味があるから・・・」というくだりには、彼女の思想的な深淵性が感じられる。人生とは、まさに、彼女の言うとおりなのだ。

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2009年5月 3日 (日)

イスラム圏では確かに豚は不浄な動物とされているがエジプトの判断には明確な誤謬ある-いわゆる宗教のもつ原理性の恐ろしさの露呈として-

エジプトが国内すべての豚処分へ、FAOは再考促す
4月30日15時40分配信 ロイター

 [カイロ/ローマ 29日 ロイター] エジプト政府は29日、新型インフルエンザの被害が世界的に拡大していることを受け、国内で飼育されている豚30万─40万頭すべてを殺処分にすることを決めた。

 これに対し、国連食糧農業機関(FAO)は、「間違った判断」と再考を促している。
 エジプトのガバリ保健相は、国営通信社を通じて発表した声明で、「エジプト国内の豚全頭を本日から処分することに決めた」と述べた。

 一方、FAOのドメネック主任獣医は同日、ロイターに対し「間違った判断。そうした処分を行う理由はない。これは豚ではなく、人間のインフルエンザだ」とコメント。エジプト政府に連絡を取ろうとしていると話した。

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福原愛の眼光

 それは猛禽類のおじろ鷲が獲物を狙うほどに炯炯としていたのである。一瞬にして集中力の鬼に変貌する姿は、やはり、天才の名を欲しいままにしている卓球者のそれであったのだ。

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商品名 北の大手門塩上ガツの窮理なまでの味

 これまでに、たくさんの豚の胃袋を、いわゆる、ガツ刺し(加熱調理済)として食べてきた。しかし、標記の商品を初めて食してみて、その芳醇な味わいに感動するとともに困惑している。

 一般に胃袋は加熱すると縮む。それが、まったく縮まないうえに、嘘のように軟らかいのだ。漿膜・粘膜・筋層のいづれもが喝としてしっかりしている。この商品は如何にして、斯くも斬新な加工が施されているのか。僕には、皆目、見当がつかないのだ。

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知への構え

 自分で満足できる知を自分のなかで構築し屹然としている限り、それは、大きな矜持として、あたかも、大きく峻険の山塊のように聳え立ち、例え、身は、如何なる業種・或いは、低い位階に甘んじようとも、充満な気持ちと完結的な自己優越性において劣等感に苛まれる可能性は絶無なのである。現実なるこの僕が、日々の労務のなかで明確に証拠を出し続けているではないか。それを以て刮目せよ。成りたい自分になれ。そして完成したい自分を組み立ててゆくのだ。

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パンデミックアラートフェイズ5の状態では哲学書は読めない

 新型インフルエンザの警戒レベルがフェイズ5に引き上げられた日は哲学書を読んでいた。しかし、考えに集中できなくなったため【ニッポンの大学 小林哲夫著 講談社現代新書刊】を読むことにした。単なる大学のランキング本であり興味本位で読むには丁度よい。

 大学全入時代を受けて、既に、大学は漂流を開始している。結果、何処に辿り着くのだろうか。最底辺の大学では、花札をしながら学生が聴講(聴講とはいえないばかりか非礼)したり、飲酒し乍らの聴講も当たり前の光景であるという記述には驚きを禁じ得なかった。

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オレは忌野清志郎が大嫌いだったけど「パパの歌」という歌を聴いた時点でオマエはすべてを理解しているんだなと感じてオマエのファンになったんだ。ロックンロールも業としては深い。それに能く殉じて瞑目してくれ

忌野清志郎さん死去=RCサクセション率いた「ロックの神様」
5月3日0時8分配信 時事通信

 RCサクセションの中心メンバーとして活躍、「雨あがりの夜空に」などのヒット曲で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日午前零時51分、がん性リンパ管症のため、東京都内の病院で死去した。58歳だった。東京都出身。葬儀は9日正午から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻栗原景子(くりはら・けいこ)さん。
 1968年にRCサクセションを結成。70年、「宝くじは買わない」でデビューした。「僕の好きな先生」「い・け・な・いルージュマジック」などが大ヒット。「ロックの神様」と呼ばれ、CM、映画などでも活躍した。
 政治的なメッセージを織り込んだ曲も歌い、反原発を取り扱ったアルバム「COVERS」や、パンクロック風にした「君が代」を含む「冬の十字架」が一時発売中止になった。
 2006年7月に喉頭(こうとう)がんで入院したが、08年2月、日本武道館公演で復活。しかし、7月に転移が判明し、治療に専念していた。

 ★ オマエがいなくなると淋しくなるな。オマエが、喉頭がんであることから、手術をすると歌が歌えなくというポリシーに基づいて、それを拒否した時のオマエは、ロックンロールの鬼と化していたと感じたぜ。

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2009年5月 2日 (土)

マスクとゴーグルをしながら海外旅行を楽しむ人がいるゴールデン・ウィーク

 それがニッポンのバカンスの現状であることに一抹の淋しさを感じる。

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肛門科入院病棟の典雅

 その病棟にはなんとも呑気な時間が淡々と流れていた。妻が退院して四日目。本日も経過観察のためにクリニックへと出かけていったが治癒機転が確実に機序として発現しているようなのだ。

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四方田犬彦氏の時間感覚

  本日放送分のブックレビューに四方田氏が出演されていたのだが、モノを書くという行為のリズムを1クルーに対して15分と設定しているという話を聴いて仰天した。確かに15分あれば発想を言葉に置換できる。

 そのような意識が屹として明確化している点で四方田氏は窮理な人である。そういえば、僕も、例え5分でも時間を無駄にするのは厭なのだ。それを古来、寸暇を惜しむという。一応、寸暇を惜しんで、僕も読書にいそしんでいるのも、これまた、一つの事実ではあるのだが。

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おかしいと思ったら列車を止めよ

 例えば、信号系統の一つにトラブルが起きたら、信号機すべてを赤に表示させ、周辺の列車すべてを停止させる。事態をひとまず安全側に落とす。

 また、世界では稀なことなのだが、日本では車両ドアは安全装置として位置づけられている。特に、走行中に現れた電気的信号に対しては神経質で、異変をキャッチすると、当の列車だけでなく、反対側の列車も止める。万一、乗客がドアを開けて線路内に出ていたら、反対側の列車がそれをはね飛ばす危険を考慮してのことである。

 「おかしいと思ったら列車を止めろ」が鉄道会社の合い言葉なのだ。【定刻発車 三戸祐子著】に典拠。

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心配症の不条理

  あなたがたのうちの誰が心配したからといって自分の命を少しでも先に延ばすことができますか。という問に対しての明確な解答を僕は準備していない。

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2009年5月 1日 (金)

山本五十六の博奕嗜好と真珠湾攻撃の関係

  山本は博奕を好んだという。山本は米国との開戦において否定的見解を持っていたが、決行する以上、緻密な計画を立案してもなお、最終的には博奕な要素を含んでいたとも考えられなくもない。尤も、戦争なんて多かれ少なかれ博奕的な要素を含んでいるものなのであろう。

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「とてつもない日本」というタイトルの本を麻生太郎さんが上梓したので

  経済・雇用・保健衛生の点でも本当に途轍もない日本になってしまった。言の葉には魂や、まして現象さえも宿ることさえあるのだ。

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書架において本Aと本Bが隣接する確率

 それも無窮であり、確率的に算出することは現実において不可能である。漱石の本と池田晶子の本が仲良く書架に収まっている理由など何処にもない。しかし、池田晶子の本と小林秀雄の本が並んでいるということはあり得る。また、当然乍ら、同一書籍の上下巻とか全集の一巻と二巻が並んでいること就いてはそこに蓋然性が存在する。

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