仕事が仕事だから本来業務で死ぬことは厭わないのだ
しかし、現在の状況に鑑みて、現状の当座において喫緊にも必要とも思われない親睦行為に参加することを原因として落命することはやりきれないのだ。例え、その会合が和の睦みに必要なものでも、たぶんにおいて別の機会も設定しうるのだ。
しかし、現在の状況に鑑みて、現状の当座において喫緊にも必要とも思われない親睦行為に参加することを原因として落命することはやりきれないのだ。例え、その会合が和の睦みに必要なものでも、たぶんにおいて別の機会も設定しうるのだ。
現在においても、エイズという局面において、いわゆる、パンデミックという状態が既に現出している。新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)は、その質的量と感染方法の点でエイズとは一線を劃しているだけの相違なのだ。
そのために、こういう事態になって、そういうことになっても仕方がないのは予めの覚悟であったはずであることの再確認を自分に対して問いかける。答えはイエス。そういう仕事なのだから、そういう結果になっても志方がない。
【米内光政 阿川弘之著 新潮社】を読んだ。これで阿川が仕掛けた海軍提督三部作のすべてを読み終えたことになる。剽悍かと思えば茫洋。米内という人は、そういう一つの現象であると思えた。阿川が指定している海軍提督の三人のなかでは、個人的には井上成美が好みである。
米内光政にしても鈴木貫太郎にしても、終戦にむけて最大限の努力をした。しかし、ポツダム宣言案が提示さけた時にこれを即時に受け入れていれば原爆の惨禍は免れ得た点において口惜しくもある。もちろん、軍部等々を抑え込むことは容易ではないことは承知している。なるようにしかならずに戦争は終結することとなったのだ。
心理学を基礎とし臨床心理学へと跳躍した頂点そのものを屹とした時点が基始であり、なおかつ、心なるものに対して医学的加工を施した【科学】のことを精神医学と呼ぶものと考えた。精神医学は心理学の一分野であることには間違えがなさそうであるが、心理学は今現在においてもブラックボックス化しているように僕には思えるのである。
電気機関車を見ていたら機関士が女性であった。そういうことに驚くこと自体がジェンダーに関して違反しているのだと自覚しつつも、あの激務で知られるJR貨物の電気機関車運転職として運転席に坐しあれだけのものを動かしていることに驚きにも似た感動をおぼえるのである。
標記に識した人物は読売新聞の人生案内を担当しておられるドクターです。野村総一郎という氏名の発音的な安定感と、相談者に対してどっしりとした安心を与える回答には毎回のこと乍ら感服しておりました。先日、テレビ出演しておられたので、まじまじと顔を眺めたのですが聡明な青年のような線の細さを感じました。うつ病研究の泰斗ですね。
昨晩、20時30分に就寝したため、WHOが緊急会議を開催したことを知りませんでした。ミーシャ様には、頓珍漢なコメントをつけてしまい失礼致しました。
安価で良質な医療関連情報が入手できる点において魅力的な冊子です。大きな病院では待合室などに設置して無料頒布しているようですが、大きな病院に行く機会もそうそうはありません。
一体、宮沢賢治は猫が好きだったのか嫌いだったのか。【セロ弾きのゴーシュ 長岡輝子朗読版CD】を聴いていて頭を掠めた疑問である。賢治が猫嫌いであると仮定すると、ますむらひろしの一連の作品は賢治の意にはまったく染まないものであると言えることになってしまうのだ。
一九九六年、アメリカのベンチャー企業であるギリアド社がリン酸オセルタミブルという名前の薬品として開発。それをスイスのロッシュ社がライセンス供与を受けタミフルの名称で販売を開始した。
それまでの治療薬リレンザはパウダー状で吸入器より吸い込んで肺や気管に直接作用するのに対しタミフルは錠剤であるがために経口投与できる点で利便性が高く抗インフルエンザ薬のシェアを独占するに至った。
タミフルは四十八時間以内に服用しなくてはならない理由は、インフルエンザウイルスの増殖を防ぐことにその肝心があり、増殖に必要なノイラミターゼの働きを抑え込む所以に依る。日本では、年間約一千万人分が使用されており、これは世界における消費量の七~八割に相当する。【パンデミック 小林照幸著】に典拠。
一日に走行する列車が一万二二二0本。信号機の数が一万三九〇〇。通信ケーブルの長さが八万㎞。車両一台の部品の数が四〇〇〇種類で二万一〇〇〇個。橋の数が一万四八六〇個。トンネルの数が一一八四。踏切の数が七四二五個。営業㎞数七五〇〇㎞。駅の数が一七〇七箇所。現業部門の従業員数五万四〇〇〇人。一日の乗客数は一六二〇万人。これに加えて自然現象にも曝されるのである【定刻発車 三戸祐子著】に典拠。
新型インフルの大流行前ワクチン、厚労省が有効性を認定
4月6日23時2分配信 読売新聞
新型インフルエンザの大流行前(プレパンデミック)ワクチンの効果を調べている厚生労働省の研究班(主任研究者=庵原俊昭・国立病院機構三重病院長)は6日、有効性を認める結論をまとめた。
「事前接種しておけば、ウイルスへの抵抗力がつくまでの期間を大幅に短縮できる」としており、厚労省は今秋までに、接種対象者をどこまで広げるか、結論をまとめる。
研究班は、医師や看護師ら410人にワクチンを接種し、ウイルスと闘う抗体が体内にどれくらい生じたか(免疫力)などを調べた。その結果、ワクチンを計2回接種すると、初接種から6週間後には9割前後が免疫を獲得。その後、時間の経過とともに免疫は低下していくが、あらかじめ2回接種すると、流行時にワクチンを1回接種するだけで1週間後に免疫が上がることもわかった。
これとは別に実施された5561人を対象にした副作用調査では、約3分の2が痛みや腫れなどを訴え、一部が発熱、手足のしびれなどを訴えて入院したが、入院率はワクチン接種していない人とほとんど差がなかった。
今回検討対象となった大流行前ワクチンは、薬事法上の承認はすでに受けており、政府は3000万人分を原液で備蓄済み。今年度予算では、流行時に海外との窓口になる空港・港がある7地域の医師ら30万人分のワクチンを製品化する準備費を盛り込んでいる。
標記の言葉を重く受け止めている。これまで、WHOからこれほど迄に鬼気迫る言葉を聴いたことはない。感染症におけるペシミズムの詩学とも感得でき、この言葉を重く受け止めない獣医師がこの世の中に存在しうるのだろうか。
個人的には3M製のが良さそうだなと思いました。価格もお手頃ですし、三~五年が有効期限になっています。今時、発生した豚インフルエンザは発生時期に関する従来の定説を覆して、季節特異性を否定しています。夏に発生する可能性だってあります。無駄になりそうなら、有効期限が切れそうになった時点で花粉症の季節に使用してもよいわけですし。
最低、N95レベルのマスクでないとマスクをしても、新型インフルエンザに関してはその意味がほとんど無いと言われているようです。当家では、既に発注をかけました。今回の新型インフルエンザはどのような転機で終熄するかわかりません。しかし、将来にわたって新型インフルエンザが発生しパンデミックを起こすことは常識として認識しておくべき事柄です。
上掲したサイトは、「あなたは医療関係者ですか」と聴いていきます。「はい」をクリックすればなかに入れます。今時、患者であっても、【患者】という立場では医療関係者です。どうか、自助努力によって新型インフルエンザに罹患することは避けたい。そう願っています。
標記に掲げた言説はおそらく普遍的に正しい事実である。そこで、【ユング心理学入門 河合隼雄著 培風館】を読んだのであるが難解でありすぎた。そも、この本は初版が一九六七年と河合が少壮気鋭の頃に上梓された本であることから、いかにも力が入っている。そして二〇〇八年において五九刷発行のロングセラーとなって現在に至っている。おそらく、河合隼雄の門下生が京大の教養部あたりでテキストとして指定しているのだろう。
余談だが、トムソンの病理学という獣医学術書がある。主任教授が訳出したためにこの本をテキストとして講義が進行することになり辟易した憶えがある。初学者には電顕下での組織像など皆目読み解けるはずもない。
培風館といえば、大学の一般教養課程のテキストを一手に引き受けている出版社というイメージがある。また、【この本は京都大学文学部において「分析心理学」として十三回わたって講義した内容を骨子とした】とも書いてあるので充分な手応えを期待していたのだが、あえなく断念と相成った次第である。
思潮・思想の世界を考えてゆく場合、心理学や精神医学の潮流を俯瞰しておくことは必要な作務である。今更、現在においてフロイトが正しいとも思わないが、ユングに就いては確実に押さえておきたいのである。今後、河合の別著からユングには引き続きアプローチをしてゆく予定でいる。
哲学は命脈は論理である。如何に難解であるといわれようとも、文脈は一応において繋がっている。しかし、心理学は、その解釈なり言説なりがいきなり理解不能の境地へ飛躍するために論理的に追跡できない部分がある。
心理学は思想であり、なおかつ、ナチュラルサイエンスとしての側面の二重性において重層的であるが故に悩ましいのである。哲学は、ソクラテス以降、ナチュラルサイエンスの容喙を一応、拒否している点で非重層的であるともいえる。
哲学の窮理な姿は、とりもなおさず数学である。数学なら理屈で追っていける。ところが、心理学はそれができない点において魔法なのである。言語においてそれが魔法という形を採る場合、それは詩としての要諦を満たさなくてはならない。しかし、心理学は詩歌とも歴然と異なる。嘗て、故池田晶子が「心理学は不毛である」というようなことを述べた。今、その言葉をかみしめているのだ。
であるとすれば、豚インフルエンザに対して現状において開発されているプレ・パンデミックワクチンは充分に効果を発揮するのか。勿論、プレという字句において如何なるタイプの新型インフルエンザに対しても一定の効果があるものであると信じたいのだが・・・。また、豚は、日本脳炎等々においてブースター動物になる点でも鬱陶しいのだ。
老朽化で4年前に引退した「SL人吉」の運行がJR熊本~人吉駅間で復活し、出発式が25日、熊本駅で行われた。ファンの根強い声に応えた結果で、JR九州が約4億円かけて修復した (時事通信社)25日11時8分更新
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今年の夏休には乗り行こうかな。所謂、8600(ハチロク)型は古武士の風格を堂とし威としている。蒸気機関車の風格において他の蒸気の追従をほとんど許さないだけの威風堂々である。
結局、最低・最悪の人間は鳩山邦夫総務相であるという心証が僕のなかで形成された。酒を強かに飲み褌一つになって高歌放吟し天下・国家・文学・芸術を語る旧制高校以来の伝統である。草彅もまた芸術家の一人であったのだと僕は当識した。政治家とは、どいつもこいつもソ連のノーメンクラツーラのようだ。
妻が入院のため一週間のあいだ自宅を留守にすることになった。三頭の猫を核として妻と僕は生活を共にしてきた。僕が積極的に猫に関与することは少なかった。勿論、身の廻りの世話や給餌等々も妻任せであった。
それをつぶさに猫は観察していたのである。妻入院中は僕が猫の世話をしているのであるが、猫が僕をみる目は冷たい。都合の良い時にだけ溺愛するのことと、毎日、営々と世話をしてきた者の差を猫は観察していたのだ。給餌・病猫への投薬等々で猫の協力が得られずに困り切っているのである。猫は賢い。そして、頑なである。
痔はオヤジなる者が罹患する疾病であると思っていた。しかし、うらとした若き女性にも結構、そして、いわゆる、痔主さんが多いらしいのである。本日、妻の手術日なり。腰椎麻酔下にて催行。
しかし、本日から妻が痔疾の手術のため入院し、明日は手術を予定している。特に、お世話になった人たちには特段の魂魄を込めてお礼を申し述べたかったのであるが事情が事情であるが故に、もっとも肝心な歓送迎会に出席できないことをお許し願いたいむねをここに誌す。送辞への想いは出席できる同僚・上司たちへ託すものとしてある。
「国際間の人の移動に伴う健康問題や病気を究明し、予防する医学」と定義される。専門医やクリニックも限られているため、日本では、長年、企業の産業医がその任を担ってきたが、今現在において、「独立行政法人 労働者健康福祉機構 海外勤務健康管理センター」という組織がある。そこでは、日本と異なる気候・風土・医療事情下で働く人たちの医療支援を行っている。そこで働く医療者の指摘はなかなか興味深く鋭い。「インフルエンザの流行期が一月~三月というのは北半球での話」・「オーストラリアなどの南半球の国でのインフルエンザのピーク時期は六~九月」というアナウンスメントをしているのは流石である。【パンデミック 小林照幸著】を参考
【悶々ホルモン 佐藤和歌子著 新潮社刊】を読んだ。帯には、「女ひとりオヤジ酒場で・ああ早く私もオヤジになりたい」とある。著者の佐藤和歌子は二十代女子。彼女のモツ料理に付帯する周縁組織・器官の食べ歩き紀行という体裁の本である。
様々な臓器を生食・刺身で食べている記述を読んで唖然とした。例えば、脾臓の刺しなど食べても平気なのか。いや、平気であるはずがない。脾臓など細網内皮系の臓物で免疫関係に大きく寄与しており感染症に係わる最前線である。業界用語で「チレ」と呼ぶらしいが、獣医師免許を持っている僕だってそんなことは知らない。膵臓は自己融解が早いため食用化には不適であると聴いていたが、これを焼きで食べていることも驚きの一つである。
食べてごらん・・・と勧められたら僕は断る。それは、肉やレバ刺し等々がもたらす病害について一応の知識を持ち合わせているからだ。とまれ、リンパ節の刺身は古今のモツ料理屋でもおいていないことに就いては安心した。精肉、臓器・内臓肉の刺身を提供するほうも提供するほうだが、食べるほうにも食べるほうである。悪食は身を滅ぼすと考えておいたほうがよろし。
零次元というよりも次元さえもない。零とは、れきとしての存在であるわけだから零とも表現できないそれ以下の状態であり、実は状態としても成立しえない状態であり程度において皆無。そして皆無としても存在しえない状態であり状態として存在しない。存在としても存在しない形容不可の状態。・・・そして途絶・・・。
家族や社会に迷惑をかけているのは【症状】である。【病気】そのものが迷惑をかけているのではない。だから、精神科医は症状を除去することが周囲の期待に応じることになり、症状が消えたら治ったということになる。
症状をとられるということは、患者さんにとって自己防衛手段を奪われることと同じことに相当することもあるからして、後は自殺しか残っていないと選択肢も理解しうるのである。
症状というのは、風邪と同じで、出す必要がなくなれば自然になくなるものである。ところが、最近の精神医学は、症状をとることしか考えなくなってしまった。病気をみないと病因を誤りかねない場合もある。【臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために 木村 敏著】に典拠。
東京駅を始発としない限り、その列車はブルートレインという定義のなかには収載することは僕にはできない。
九州にゆく寝台特急列車こそが、それ、即ち、ブルートレインであり、北海道や北陸へゆく寝台特急は、例え、そのボディーは青に塗装されて電機機関車に牽引されていても、最早、ブルートレインの亜種でしかない。
九州に向かっていたブールートレインは「行く」でなく、寧ろ、「征く」にふさわしい形容の字句を充てなくてはならないと感じている。
【処刑電流 エジソン、電気戦争と電気椅子の発明 リチャード・モラン著 岩館葉子訳 みすず書房】を読んだ。本の帯には「電気椅子という人体実験」という文字が躍っている。
電気椅子についてエジソンが大きく関わっていたのは驚きであった。電気椅子は死刑囚の苦痛軽減を目指す進歩的・人道的関心の結実などではなく、大電力会社の一つ(エジソン・エレクトリック・ライト社)とライバル(ウェスティングハウス社) の確執の結果において発生した産物であることを知った。
それは、もちろん都市の電気需要のシェア獲得の覇権闘争の歴史であるには違いないが、その根本はエジソンがDC(直流)を採る立場に対してライバル社がAC(交流)を呈上したことにおいて問題は権謀術策のうねりへと大きく傾斜してゆく。
ACがDCよりも勝れていることは一八八八年には既に大衆の知るところとなり、DC側にいるエジソンは、ACはあまりに危険で商業・家庭用には向かないというキャンペーンを張った。また、その誹謗中傷工作の一環として、電気椅子に用いる電源をAC側に押しつけるように画策もした。それに対して、AC側は、【処刑電流】の汚名を回避するために、初の電気椅子処刑者のケムラーの処刑阻止を企図して大規模な法廷闘争へと傾れ込んだ。・・という内容である。
この本は、死刑の是非・電気椅子の人道性等々を考える上で貴重で希有な一冊である。人道そのものが議論の対象になることにおいて、死刑とは既に言説的には人道的ではないともいえるのである。
それも朧にむかうための生理的変化であり、朧への本能的回帰であり、朧とは死に至る過程の必然的モラトリアムとも了解できる。また、朧にして霞んでいる状態にこそ生気の華があるのかもしれぬ。
吸気では交感神経の支配。吐息は副交感神経支配下。僕は、こんなことも忘れていたのだ。生理学をキチンと勉強し直さないとダメだなと痛感する。個人的感興としては基礎系でも解剖学よりも生理学のほうが遙かにおもしろい。
過呼吸という状態がある。その病理学的(精神病理学的には難しい状態なのであろうことは想像に難くない)機序と対症療法は至って単純なようであるが、何気に、交感神経支配下で発生することに対して宜なる哉という印象も受ける。
【坂崎重盛著 光文社】という体裁の本を読んだ。モツの煮込みはB級グルメの最下層に位置する食べ物である。ところで、僕も、モツの煮込みに関しては一家言を持っているのだが最近では健康のために食べないことにしている。だいいち、体のほうが既に脂っこいものを受け付けないのが如何にも悲しい。食しても精々において年に一回程度である。
モツの煮込みの正体は高塩分・高プリン体・高脂質。死の三重奏を発現する要素を充分すぎるぐらいに満たしている。僕には存在しえないといわれる一人称の死を家族のためにも、当分のあいだは回避し続ける義務がある。現実には、僕が本当に怖れるのは二人称の死なのであるが・・・。
現在において、東京の随所に、こだわりの老舗的な煮込み屋があることを知って食指が動かなかった訳ではないが、現実には食べにはゆくつもりはない。しかし、そういうモツ料理専門の店舗が、ドッコイ生きているということに一庶民として悦びの念を感じる。多分、モツの文化が健在している街は活気のある街であると断定して間違いがなかろう。
その科学的根拠を知りたかったので、【心も体も「冷え」は万病のもと 川嶋 朗 集英社新書】を読んだ。著者は北大医学部を歴として卒業した医師であり、東京女子医大附属青山女性・自然医療研究所クリニックの所長の任にある。
内容は希薄でありエビデンスの基づく説明の部分が弱い。寧ろ、弱すぎるのである。記述には首を傾げたくなるような知見があふれている。そのために説得力には著しく欠ける。しかし、医師は医師。ほう、と唸らせられる部分もあったことも附言しておくが、集英社新書編集部の書籍に対する識眼の凋落を感じさせる一冊であった。
私は今はどなたからどのような手厳しい批判を浴びても標記のように、にこやかに引き下がる好好爺となった。【昭和のエートス 神戸女学院大学文学部教授 内藤樹】
☆ 僕は爺とはいえない年齢を生きているが、譲れない一線は別にしても、基本的には反論しないことも人生における大切な徳目の一つであると考えるようになった。というか他人を肯定することは対立することよりも自己の精神衛生において都合がよいのである。
死に方とは、どう考えても、「生」の側にある。「死」は生きている人には絶対に経験できない。絶対に経験のできないことについて願望を持つことはできない。
死を無と考える人たちがいる。が、無というものを考えられたら、無ではなくなってしまう。無いものは考えられない。
死は人生の何処にも無い。そう認識すれば、現在しかない。すべてが現在のなかにある。過去も現在のなかにしか存在しない。【池田晶子】
従来、「遣り甲斐」のある仕事とは、受益者を想定して彼らからの笑顔や感謝を想像することで、労働のモチベーションを高めてきた。
しかし、近年、労働観の質は変容し、遣り甲斐のそれは、その労苦がもたらす利得を優先的・排他的に受益するのは他ならぬ「私一人」という思考が台頭している。
だが、労働の本質は、個人の努力が集団の利益に「かたちを変える」ことのうちに存する。個人の努力が個人に専一的に還元されることを求めず、逆に、多くの他者に利益として分配されるような「特異なメンタリティ」に拠って労働は動機付けられている。それが納得できない人は労働には向かない。
私たちが労働をするのは、自己実現のためでも、適正な評価をうるためでも、クリエイティブであるためでもない。生き延びるためである。労働が私たちに「特異的なメンタリティ」を要求するのは、それが「生き延びるチャンス」の代価だからである。私は、この代価を高いとは思わない。【昭和のエートス 内田樹】に典拠。
【朧】や【霞】、【儚】として理解しているのである。それらの統べては茫洋としており、或いは、形骸、または、空蝉なのかもしれないのである。少なくとも、現実とは乖離しているが、それは、また、現実とも深い関係性を構築しているようにも思える。
○ 「放射線物理学的アプローチ」と呼ばれるものであり空間的線量分布の調整のことをさし、正常組織への侵襲を低減して、なおかつ、如何に腫瘍部へ焦点を絞りどれだけの線量を集中して照射できるかの工夫のことである。
○ 「放射線生物学的アプローチ」のことをさし正常細胞と腫瘍細胞の放射線照射に依る回復時間の差異を利用して、腫瘍細胞がダメージを受けている状況のなかで、追加照射をする時間的タイミングのことへの工夫である。【がんをどう考えるか-放射線科医からの提言 三橋紀夫著】に典拠。
【臨床哲学の知 -臨床としての精神病理学のために- 木村 敏著 洋泉社】を読んだ。病理学は臨床からは適当な距離を保持している。もちろん、臨床病理学や、精神病理学等々の分野は存在しているが故に「臨床」と「病理」のもつ連関性は必ずしも否定できない。
しかし、単体で、[臨床哲学]というパラダイムを突きつけられるとなかなかに難しい。もちろんそれは、臨床医の哲学というようなモラルのようなものを指すのではなく、そこに思想的深淵性を感得した。
今週、僕は、この難解な臨床哲学と観念に呪縛されるが如く、その都度、その都度、考えてみた。結論は-。なお、臨床哲学は、医療者や患者によって独占されるべき体系ではなく、現場は病院であるという束縛を受けない点において、なお、その概念は複雑に錯綜していた。
この番組を読書経験の基礎としている限りにおいて、その読書体験は窮理な迄の高見に達し得ないことに気がついた。
特に合評する本の質に問題がある。出演者は、司会者二人や他のゲストに負担がかからないような本を選択するのがマナーであるという点において、おもしろくても、つまらなくても、最大公約数的な本を呈上する必要がある。それには新書程度の本が適当であるということになる。
僕も新書はよく読むが、新書は読書体験のなかではおつまみ的な意味しか為さない。端的な話、刺身のツマ的な立場をその要件としているにすぎないことに気がついた。事柄におけるサマリー的な本が新書であって読書体験のなかの位相は副次的でさえある。
【京都の平熱 哲学者の都市案内 鷲田清一著 講談社】を読み終えた。一連の京都本のなかにおいて絶品であった。著者は京都で生まれ育ち、現在は阪大の副学長であることから学究的な視線で京都の様々な学校を逍遥・徘徊している点でも興味深い。屹とした好著である。
わざわざ、書店に注文して手に入れたにもかかわらず大事なことを忘れていた。初版が1996年なのである。医学的事実において不変なこともあるだろうが今では古い本の部類に入る。
この領域の本で古い本は、現在の医学の進捗に合致していない場合が多い。そのため読むのを止めてそのまま書架へと移動することとした。著者の近藤誠は放射線科医である。放射線科からの発信や提言は、とても貴重なのだが・・・。とまれ、この本が、がん医療を取り巻く一般書籍として大きな旋風を巻き起こしたことは記憶に新しい。しかし、医学的ファクトとしておそらく古い。
1996時点では、患者は、断然にして果断、がんと闘わないほうがよかったのかもしれない。しかしでは、今現在でも、やはり、がんとは闘わないほうがよいのだろうか。近藤には続編の刊行を期待したい。
【学徒兵の精神誌 与えられた死と生の探求 大貫恵美子 岩波書店】を読んだ。学徒出陣の周縁の本は、どの本を読んでも痛々しい。また、この本は岩波書店から出版されている点において特段の興味をそそられた。蛇足ながら、岩波書店も左傾的であるといわれている。
さて内容。極めて精緻に分析し考証が加えてある。しかし、学徒兵を一括りにしている点で、この本は、【学徒兵の精神誌】として普遍的な事実を伝えていない。それは大貫の眼鏡に適った学徒兵を選別するという作業が働いている所以に依る。旧制一高・東京帝大レベルの者たちだけを取り上げている点において些かの難が存在するが、それは、もとより本書が旧制高校生たちの知性を一つ一つ検証するという点に大貫の興味がある所以に依るものと理解される。労作であることには間違いはなく好意的に評価できる一冊である。
著者には先著として【ねじまげられた桜-美意識と軍国主義 岩波書店】があるが、こちらのほうにおいて大貫の面目躍如が確実に結実していると思える。
それに対応する医療者の姿勢がナラティブ・ベースド・メディスンなのだ。僕自身もまた、自分の物語を創り上げている。問題はその物語がただしく正常か否かにかかっているということなのだ。
インフルエンザは空気が乾燥する冬期に発生するという認識はローカルな常識である。沖縄県では2005年以降、夏場にもインフルエンザが発生し学級閉鎖が相次いだ。
これは、地球温暖化に伴い東南アジアにみられる亜熱帯型インフルエンザの流行パターンに移行しつつあることの証左であり、雨期においてピークを示す傾向がある。また、タイでは、インフルエンザのピークは乾期と雨期の二峰性のピークが観察される。新型インフルエンザのパンデミックが夏場に発生しても不思議ではない状況が現出しているのだ。
【パンデミック 小林照幸著 新潮新書】に典拠。
社会機能保持者とはライフラインを支えている者のことを指す。警察や公務員や医療者など。新型インフルエンザが発生した場合に彼らには十分に活躍してもらう必要と義務がある。
プレ・パンデミックワクチンを接種してから現場に臨場する点において彼らは、(一応←ここが肝心)新型インフルエンザで死亡するような重症化は回避することができると思われる。
しかし、パンデミックな状況下、社会機能保持者が業務を終えて帰宅する場所はおそらく想定されていない。家庭に戻ればインフルエンザを家族にうつすことになる。それは絶対に避けなくてはならない。ホテル等々も多分、営業を停止しているはずである。
所属に戻るとしても、それが遠隔地にあり地域で活動せよという内容の命令が下ったらどうする。寝場所がない。親戚に公務員がいるだけに心配は募る。
毎年、同じ桜の木の下に桜の花びらは堆積する。同じものは同じ場所に堆積する。それは普遍であり不変であり、それは停滞である。事象は同じところに積もり続ける。そしてそれは、桜の樹の存在論へと逢着する。
生命の実相を如実に示した良寛さんの有名な一句である。桜を観に出かけて無常なるものを感じた。果断、訣然として散るところに桜の潔さを感じるのである。結果、去年の桜と今年の桜とは何らの変更点を認めることができなかった。そしてまた、生命の躍動とかそうしたものはそういうものなのであろう。
この本のタイトルを見た時、何とも陳腐だと思った。どうせ、そこいらのスピリチュアル系の売文家がテキト-に書いたものだと思い一瞥しただけで書店の書棚の前を通り過ぎようとした。しかし、著者がV・E・フランクルであることから即、購入した。氏はいうまでもなく、「夜と霧」等々の不朽の名著を残した人物である。
フランクルがナチスの強制収容所に収容されて、まさに今現在の命も知れぬという窮理なまでの自己体験を基に精神科医として哲学者として分析したのが「夜と霧」であるのだが、その内容については省く。ただし、この陳腐とも思われるタイトルには、実に深淵で窮理な含蓄が秘められていることに愕然とした。
「それでも人生にイエスと言う」。これはナチスの強制収容所に収容されている無辜のユダヤ人が、合い言葉のようにして自己を督励する言葉としていたことにおいて重大でまったき重き意味を持つ。まさに、言葉には可塑性があり同じ言葉でも誰が述べた言葉なのかという点において言葉の持つ意味の深さが斯くも異なることにも改めて驚いた。
「生きる意味」だの「自分探し」だのという文脈での自己探求の無意味性は既に承知しているがフランクルのいう「生きる意味」の定義には改めて刮目し目から鱗が落ちる想いがした。曰く。人生とは、人生が発する問に答えを出し続けてゆくこと。これに勝る解答はないといってもよいだろう。
生きる意味論を考える場合、その思考は、概ね、パッシブな傾向を帯びる。他方、「人生が発する問に答え続ける」という場合、その態度はアクティブでなくてはならない。待っていても人生はどうにもならない。働きかけこそを肝要とするフランクルの人生論には大きな感銘を受けた。
大線量を照射した結果、がんが治っても障害が残ってしまうと医師は訴えられる。しかし、リスクを冒すような治療をせずに、がんが治らなくても、「がんだから治らなくても仕方ない」という状況では訴えられることがない。
そんな風潮は医師を、どんどん萎縮させてしまう。それは、結果的に患者にも不幸なことである。医学とは完成された学問や技術ではなく、今現在において未熟で未完成な科学であることを理解すべきである。【がんをどう考えるか 三橋紀夫 新潮新書】。以下私見。
過剰な権利意識はすべてのフェイズで社会生活を煩わしいものにしている。
この南という坊さんも怜悧で鋭い。仏教は信仰であることがもちろん第一の要諦であるがその本質は思想であるものと感じる昨今である。過日、NHKで放映している「こころの時代」に出演していた。
私たちが勝負事に熱中するのは勝つためではない。「適切な負け方」、「意義ある敗北」を習得するためである。「敗因はすべて自分自身のなかにある」という覚悟・「反省と自省」を為す心の涵養にその要諦がある。【昭和のエートス 神戸女学院大学文学部教授 内藤樹】を参考。
さて、夏期の高校野球の教育的効果は、ただしく負けること、負け方の方法の会得にある。それは日本全国の高校のうち、負けない高校は、ただの一校だけしかない所以に依る。いづれ何かの形で何かを止揚して何かに勝てばよい。方向転換や転身でも構わない。しかし、絶対に負けてはいけないものもある。
【一日一生 天台宗大阿闍梨 酒井雄哉 朝日新書】を読んだ。千日回峰業を二度にわたっておこなった人である。「身の丈にあったことを毎日くるくる繰り返す」という言葉が妙に得心した。こういう偉業を成し遂げた人の言葉は、惻々と身に沁みてくるものだ。
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