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2009年2月

2009年2月28日 (土)

僕には僕の弔い方がある

  同窓の先輩が死んだ。僕は僕の宗教観に基づきベストと思われる弔いの仕方を実践する。当ブログでは再三に渉って死や弔いの方法を考えてきた。葬式に出席するのも弔いの一つの様態を為し、至極、スタンダードな方法として膾炙されているので否定するものではないし故人やご遺族にとっても会葬者の存在は嬉しいに違いない。

 しかしまた、僕は、現今における弔いの方法に就いて一抹の疑問がないわけでもない。そのため、今時の葬送の方法に疑問を呈して葬列の坐に連なることを控えることとした。敬愛できる先輩だった。僕は僕個人で僕の方法で追悼する。故人に僕の慟哭が伝染し理解されうるものと信じる。

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鉄道模型のファンが集まる宿が存在しているなんて知らなかった

 今朝のNHKのニュースで紹介されていました。一度は、行ってみようかなとも思案しています。こちらのようですね。温泉よし、食べ物よし、風情よし、そして鉄道よし。

(参考)

 http://www.kagetsuen.co.jp/

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春が花粉を運んでくる

  花粉と共に春が来る。仕方がないという対処のあり方も存在しうる。僕自身も重篤な花粉症であるがこれまでに花粉症が原因で死んだという人の話を聞いたことがない。春という耀躍する季節が運んでくるのだから仕方がない。善きかな春。

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2009年2月27日 (金)

クラシック音楽に再度入門する

  今、廉価版のCDがたくさん出回っている。が、クラシック音楽に限って言えば、少々、高価であっても、確かなオケが演奏するものを買いたいものだ。指揮者については楽曲の性格等々を考慮して適当だなと思う人を選択するのを好みとしたい。

 ベートーヴェンの田園ならレナード・バーンスタイン。ワーグナーならカラヤンとかフルトヴェングラーとか。昔、レコード芸術という雑誌を読んでいた。そこに名盤の紹介が為されていたので、随分と参考になったが、最近は、とんと分からぬ。吉田秀和あたりが文庫等々で推薦しているようなアルバムを買えば間違いはないのだろう。

 お金を惜しんで五百円程度のCDとも呼べないような音源は絶対に買わないこと。芸術を堪能するための識感のようなものが劣化することを危惧する所以に依る。

 本もよい。が、次なるターゲットはクラシック音楽を聴き込むことを企んでいる。

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接触阻止の喪失

正常細胞の場合、細胞同士が密着すると分裂が止まり、それ以上増えないシステムを具備しているが、がん細胞にはこの条理を無視して増殖を続ける。その性質のことを接触阻止の喪失と表現する。【東京女子医大教授 三橋紀夫】

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貧困と貧乏

 【貧困】は経済問題であるが、【貧乏】は心理問題である。相対劣位にある心的状態のことを【貧乏】と呼ぶ。

 【エコロジカル・ニッチ(生態学的地位)】という言葉がある。その伝を借りれば、ネズミがゾウをみても「あんなに大きくなりたいと思わない」のは道理である。

 誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。他者の欲望を模倣するのではなく、自分自身のなかから浮き上がってくる「自前の欲望」の声に耳を傾けることのできる人は、それだけで、すでに豊かである。【神戸女学院大学文学部教授 内藤樹】

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2009年2月26日 (木)

WBCとは何か

 業界柄、まず、白血球を想起してしまう。その言葉を初めて耳にした時、野球と白血球がいかなる関係があるのかと悩んだものである。

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知人が逝去した事実を知らなかった

 彼の訃報を今朝になって知りました。タイミングが悪いことに、昨日は、お葬式の話をアップしてしまいました。当該記事は削除することにしました。

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お詫びと訂正

 昨日の記事で不適切な表現がありましたので訂正してお詫びし削除する措置をとりました。

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2009年2月25日 (水)

春になればうつ然とした気配は消褪する

 しかし、鬱の対立命題のような、しかも、鬱よりも始末の悪い躁が始まる。自重・自任するのみ。その当識があるという点において躁とか鬱を理由として僕が為した行為はすべて僕の責任に帰趨する。

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猫は借金してでも飼え

  それは猫は可愛い動物だからである。

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2009年2月24日 (火)

空を見たけりゃビルの屋根、潜りたくなりゃマンホール

  美空ひばりの「東京キッド」という唄には不思議な高揚感がある。今、ハマリにハマッている唄である。

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航空管制官の管制業務に神業をみた

  過日、「プロフェッショナル仕事の流儀」を観ていたら羽田空港の航空管制官が出演していた。瞬時に感じたのは良い仕事をする人は、皆、良い顔をしている。畑こそ違え、うちのボスも良い顔をしている。

 航空業界では、どうしてもパイロットやキャビンアテンダントに焦点が当たりがちであり、なおかつ、航空管制官側から発信される本が極めて少ない。そのために、極めて専門的で窮理な頭脳を持つ人たちの集団であると思いつつも、航空機の交通整理屋さん的な認識しかなかったがその深淵さに改めて驚嘆した。

 羽田では、航空機が二分間隔で着陸し、一機と一機の距離が九㎞間隔だそうだ。その稠密さには恐怖さえ感じる。様々な方向からアプローチしてくる航空機を効率的に一列に並べるのがその仕事の要諦であると知った。また、気象状況やパイロットからの各種リクエスト等々の攪乱因子が多々存在するため状況は刻々と変化しマニュアルなどそこでは通用しない。

 ディスプレーに表示されるのは二次元であることから航空機の位置は視覚的直感で分かる。しかし、航空機同士の高度差や速度は数値で表示されるために直感ではなく把握という作業が必要になってくる。幾つもの航空機が示す刻々とした高度差などを把握しておくことは大変な集中力が要求されるものであると思えた。

 例えば、十機の航空機が進入してきた状況において、緊急事態が発生し一瞬にして同時に複数の指示を出す必要がある場合、余人であれば頭がホワイトアウトするのが普通であると考えられるが、ベテランの管制官では指示すべき航空機の優先順位が一瞬で判断できるという。こうした技能は一つの才能であろう。努力だけでは成立しない。僕にはまったく向いていない。

 羽田に行くと航空無線を傍受しているマニアがいる。確かに、管制官とパイロット間で交わされる会話は乾燥していて格好がよい。俗にキャプテンスピーキングと呼ばれる英語に一つの美の形を見いだすことが可能なのである。英語という異国語と数字。日本語とは関係ないが、管制官とパイロットの必要最低限で感情を交えない会話を聴くことに僕も快をおぼえる。しかし、航空無線を傍受するために羽田にゆくほどの酔狂でもない。

 それにしても、管制官の指示は絶対である。それは、まさにコンダクターに与えられる絶対的指令権である。命令一下、航空機が指示どおりに動く様には、さぞかし快感を感じるだろう。

 話は飛ぶが、旧日本帝国海軍連合艦隊においてその司令長官は四万人の部下を統率していた。そして、命令一下、八十艦に及ぶ艦船が一斉に動くし、亦、動いた。

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2009年2月23日 (月)

不可解な本である-ソクラテスを基礎として-

 【死と生きる 獄中哲学対話 池田晶子 陸田真志 新潮社】を読了したが不思議な内容を湛えている。陸田真志は死刑囚(執行既遂)である。一方、池田は哲学者。この二人の往復書簡という体裁の本である。

 死刑囚と作家等々の往復書簡集自体は決して珍しいことではない。しかし、この本は、従来のそうした類の本とはトーンが明らかに異なっている。池田は、よくよく死刑囚に魅入られるようで以前には、永山則夫からも往復書簡の遣り取りを希望されたという。

 永山といえば【無知の涙】を上梓し貧困家庭で育った故に依る社会に対するルサンチマンと、無知が故に犯した犯罪について韜晦している点で衆目の関心を惹起した。池田は永山の思想のような体裁の形骸に見るべきものなしと一蹴し希望には応じなかった。永山が罪一等を減じてもらうためのパフォーマンスを池田がその慧眼から見抜いていたと言ってもよい。

 陸田真志の場合、池田に対して一読者として純真に感想を書いて送った。その一文から池田は陸田のもつ哲学的資質を直感し、往復書簡の遣り取りが開始した。陸田に哲学的感性を見いだしたとしても、池田が何故、陸田にこうも関わる理由がよく分からないのである。陸田が一審で死刑判決を受けた時点において控訴をしない方針を選択した時に、池田は控訴するよう強く命令している。それは人道的配慮からでもなく反省を省察させるためでもない。特意に強調しておくが、強い口調で面罵するような態度で控訴するように命令指示・強制をしている。

  池田は、陸田に対して様々なことを命じている。陸田の書いた文書に書き直しを命じたり、或いは、その文書を評価を下している。褒めることもあるが、此所まで言うかと唸るほどに痛烈な批判を下すこともある。陸田も陸田で、指摘されるままに池田に迎合するような文書を書いている。通常一般において、こうした往復書簡の形はあり得ない。

 池田が陸田に望んだことは何か。もちろん、贖罪そのものではない。おそらく、池田は陸田にソクラテスを重層して見ていたのである。刑死の様態としてソクラテスは、その一命が助かるにも拘わらずに、自らの思想のために死刑を諾として受け入れた。一方で陸田の方も、盛んにソクラテスを援用し乍らも、殺人者としの自己を自覚しつつ(それが控訴しなかった理由ではないが)死に就こうとした。それは宅間 守の死刑執行願望とも異質のものである。

 ソクラテスは思想に殉じたことから他者に迷惑をかけていないのに対して陸田は二人を殺害している。その点において二人の刑死の意味は絶対的に差別されるが、陸田には、贖罪でもない、死刑執行願望でもない第三の刑死願望があった。もちろん、拘置所生活における拘禁反応の忌避でもない。それは、やはり、哲学的な死と表現するより他に言葉が見つからない。さらに追求して表現すれば【存在論】に依拠した思想の系なのである。

 実は、池田は陸田に対して様々なサポートをしていたことを本文で、チラチラと見せているが、池田の文言に係わる本質は、あくまで女王様なのであり思想的なサディズムである。池田という人は、現実世界においてはおそらく優しい情の溢れたよき婦人なのであろう。が、一旦、思想の世界に入ると鬼に化す。陸田が死刑を執行された時点で、池田は慟哭したはずである。それは、一回だけ。それは冷淡なのではない。池田は思惟すること以外に興味がないのだ。強いて指摘すれば犬に対しては人間以上に愛情を傾注した。

 陸田と池田との対話は、この本一冊で終わっている。それは途絶したという印象が強い。存在論を基盤とした哲学的感性をもった死刑囚がいた。それに対して池田が興味をもった。で、少し往復書簡をしてみた。そして双方が興味が無くなって終わり。いかにも尻切れトンボのような感が払拭できないが、二人には二人なりの事情もあったのだろう。

 死刑確定以後、末期の人生を思索に費やす一群の者たちがいると聞く。鬼哭啾々たる犯罪を犯しながら、斯くも魂の浄化と、余人には到底不可能な深い思惟を形成することについて、どのように判断したらよいのか迷う。ただし、それは、安直な死刑廃止論とは直結しない旨、申し上げておく。

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2009年2月22日 (日)

JR東日本は巨大装置産業であった

○ JR東日本では、一日に一万二千二百本の電車を運行させており、一つの車輌(動力車) には二万個以上の部品が使用されている。【定刻発車 三戸祐子著】に典拠

☆ そう考えると車両故障などが発生して当たり前なのだ。

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バートランド・ラッセルの西洋哲学史全三巻に挑む

  哲学史を一応、俯瞰しておこうと思う。書店の知人の弁では「ラッセルの基本は数学」にあるために必ずしもラッセルの哲学史には懐疑的であり、別の本を薦めてくれたのだが、僕には、【哲学史】と言えば、やはり、ラッセルなのだ。活字が小さくて老眼にもこたえる。だいいち、僕は数学や算数が大の苦手なのであるが挑戦する価値は充分に存在する。それにしても、全三巻で一万五千円となんなんとする金額は決してお手頃価格ではない。

 しかし、獣医学の専門書よりは遙かに安価である。獣医学書が僕にもたらす価値よりも哲学書が僕に与える啓示の方が遙かに大きい。獣医学は、僕が思考・思惟するための本を買うための手段である。

 帆船模型を休日を利用して製作するが如く、古来の賢哲たちと叡知の何たるかを静かに観想してゆくつもりだ。せっかちな読み方はしないで、解らないところでは、一々考えるという行為を最大限の楽しみとして哲学史を堪能してゆこう。

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ラバ-ネットをみると勉強になる

  LAVA-netを一応はチェックしている。業務の参考というよりも、もっぱらの自分の興味に依る所以。なんだかんだ言っても大動物が好きなのだ。

 http://www.lava-net.jp/

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高齢猫は顎口部に腫瘍が発生しやすいのだろうか

クリントン一家のペット猫が死亡、がん患い安楽死の処分
2月21日14時12分配信 CNN.co.jp

ワシントン(CNN) 米バージニア州の動物病院当局者は20日、クリントン元米大統領の一家がホワイトハウスで飼っていた猫「ソックス」ががんを患い、同日午前に安楽死の処分を受けたと述べた。

ソックスは1989年生まれで、年齢は19歳─20歳とみられる。口やあごの部分に発症したがんの治療を過去数カ月受けていたという。

クリントン元大統領が2001年にホワイトハウスを去って以来、女性秘書だったカーリーさんが引き取っていた。元大統領夫妻もその後、ワシントンを訪れた際、ソックスと会っていたという。

ソックスは野良猫だったが、元大統領がアーカンソー州知事だった時代に娘のチェルシーさんが家に迎え入れていた。

その後、ファンクラブも発足し、動物愛護関連の行事にも登場していた。ソックスの死亡を受け、クリントン一家は「我々だけでなく、子供や猫好きの人たちに長年にわたって幸福や喜びを与えてくれたことに感謝したい」との声明を発表した。 

最終更新:2月21日14時12分

★ うちで飼養していた猫もソックスくんと似たような経過をとりました。年齢も、ほぼ同じ。それにしても、安楽死というのも辛い決断です。僕は安楽死を決断する勇気はありません。

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2009年2月21日 (土)

人間と宇宙とを相剋するということは

 窮理と窮理の衝突である。

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鉄道会社の自己都合

電車は僕の遅れを決して待ってくれないが電車が遅れる時は平然と遅れる。

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2009年2月20日 (金)

ミュージックスカイホリデー2009が放送される -同窓会は一人で催行するのがよろし-

 パーソナリティ:滝 良子(そらまめ)
25年前まで、ニッポン放送の看板番組だった「ミュージックスカイホリデー」
今回の同窓会には「あのまめ」さんこと森山良子さんも駆けつけてくれます。
あれからと今をおおいに語り、歌いましょう!
思い出の曲、今お気に入りの曲のリクエストをお待ちしています。[ニッポン放送のHPより引用]

☆ 明日、放送されるようなので、ラジオ番組をパソコンに取り込めるUSB様の便利グッズを買ってきました。昔日のラジオ番組には懐かしさのあまり感涙すること頻りです。現実に催行される同窓会にはまったき興味はありませんが一人でしみじみと想いを馳せる同窓会は大好きです。

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猫の系

 イライラ系と癒し系の二通りが存在する。

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2009年2月19日 (木)

猫が歩いている姿を観察した

  その猫には何かの所用がありその用事を遂行することを目的として徒歩を為している。猫とて無為徒食となるような無駄な動きはしない。

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僕は、その昔、変人と呼ばれていた

 嘗て、僕は僕の変人ぶりに至上の価値を置いていたが、今は普通が一番だなんて考えてみたりしている。変人は変人と呼ばれることに至上の快感を感じるものであり、池田晶子が何度も何度も自分を変人呼ばわりするのは理解の範疇のなかにある。

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理解当識の方法

 人は自分の解るようにしか解らないのである。解らないことについての解り方は、自分の解るように解るしかないのである。それでは自分の解るようにしか解ったことになっていないということが解っていない。これが大抵の人のものの解り方です。【池田晶子】

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2009年2月18日 (水)

マザー・テレサの貧者に対する眼差し-神学的直感として-

 マザー・テレサは次のように述べています。「私たちは仕事のためにここ(死を待つ人の家 :本来は「貧困のうちに病み、死にゆく人のための家」という翻訳が正しい。)に来たのではなく、イエスのために来たのです。イエスのためにすべてのことをしています。私たちはなにより修道女です。社会事業家でも、教師でも、医師でも、看護婦でもありません。イエスは、捨てられた人や、孤児、病人、死にかけた人のなかにいらっしゃいます。」

 それに対して、マザーと親交があったアンセルモ・マタイスは、上記の言葉はクリスチャンでなければ、なかなか理解が難しいとしたうえで、「貧しい人のなかのイエスを愛し、イエスのなかで貧しい人を愛します」と解題しました。

 また、そのことを、マザーは神学上の問題を超えて、直感で悟っているものと喝破し、その要諦として「貧しい人のなかにイエスはいる」ということこそマザーの愛のダイナミズムとも表現します。

 神学上のことは別にして、マザーは、もはや、死を免れ得ない貧しい人に、自己の尊厳のなかで死を迎えさせたという点でも偉大です。

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寒い朝や夜はハワイアンを聴く

 せめて、心だけでも温まりたいもの。ハワイアンの音楽が効果的だ。

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2009年2月17日 (火)

美人薄命は正しいのか

  【残酷人生論 究極の論理思考 池田晶子 情報センター出版局】を読了した。僕は池田という窮理で希有な知性に出会えたことを嬉しく思う。それにしても、池田が早逝したことが気になる。

 「美をみし人は早逝する」とも謂われる。芸術家の多くが早逝している理由はそんな点にあり、言うなれば、パンドラの匵を開いてしまった者たちの特権、または不幸とも理解できる。

 池田晶子という女性。考究をその本質とし乍らも、一方でモデルとしても活躍していた。確かにきれいな人であった。その伝でいえば美人薄命という言葉にも信憑性が見えてくる。夏目雅子さんを失った時、多くの男性は茫然自失とし、この言葉に信憑性の正鵠について確信した。僕はといえば、呆然自失もしなかったし、その言葉に対して科学的妥当性がないものと一蹴したが故人の若すぎる死を悼む態度を支持した。

 池田晶子は、何故、斯くも早く天国に召還されたのか。おそらく、死に対して不遜であった理由による。その点において池田は死の受容等々に関して、生も死もないというロゴスを展開し、さらに非宗教的な立場から、結果的に人心に安心を与えた。池田の性格を考慮すると他人のためにモノを考えるタイプでは断じてあえない。知っていても教えてくれないタイプの人だ。

 池田のいうとおり科学的立場を堅持するなら、死は死んでからも解らない。科学を否定するのなら、死は死んでみないと分からない。死後のことを知りたいのなら、一度、死んで確かめてみたら・・・とも言う。おしなべて、池田の主張することは身も蓋もないのである。

 その著書のなかで、池田はくどい程、生には恬淡としていることを告白している。生の意味を考えることは死を考えることとまったき同義である。しかし、生を主体として考えるのか、死を主体として考えるのかではその立脚点において対極の関係にある。池田には、先ず死ありきという姿勢が紛々としており、どこかで生というものをなめていた。生かされていることを理解しようとしなかった。それは生の希薄性を意味する。希薄性故に、現実に生の希薄を現実として膀胱がんという希有な病気で死んだ。

 僕は死にたくない。だから生の対立命題としての死の問題を当ブログで考えている。生に貪欲であるからこそ死にも貪欲なのである。その末期において、死を恬淡と受け入れたい。池田と僕とのあいだには生に係わる基本的認識とその立脚点において180°の差違がある。生には貪欲でありたい。

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2009年2月16日 (月)

瀬戸内晴美または瀬戸内寂聴のエロスの問題

 【寂聴伝 齋藤愼爾著 白水社】を読了した。本を購入してから白水社刊ということに先ず驚いた。精々、講談社あたりから出版されているのだろうと思っていた所以に依る。要するに、瀬戸内の評伝がでるとしてもその程度の作家であるとみていた自分の不明を恥じ入る。

 この本は、一応、評伝として分類できる。が、人物の人生が完結していない限り評伝とはなり得ないという点で悩ましいのだが歴とした評伝と断言してもよい威風を備えている。その評伝に対して寂聴も万雷の賛を著者に贈っている。評伝としてはまさに正しく一級である。大岡昇平による中原中也の評伝もすばらしいものがあるが、それにも比肩する。

 僕は、そもそも女流作家が書くものは好みとしてこなかった。豈図らんや、瀬戸内晴美が小説として扱ったテーマは僕が好みとする者たちばかりであった。岡本かの子のことを書いていることは知っていた。しかし、伊藤野枝を書いていることは迂闊にも識らなかった。僕は、つくづくと不明者である。

 瀬戸寂聴というと多淫というイメージが先行していた点で、僕は二重の不明を犯していた。多淫で結構。親鸞だって蓮如だって性の問題を持て余していたのだし。それにしても、僕は、通俗一般、ないしは小説家さえ誤解しているエロスという言葉の用いられ方が嫌いなのだ。現状、性愛に類似する言葉としてエロスという言葉がある。

 一般に、純文学においてエロスの占める比重は高く、その性描写には特段の文学的配慮が必要とされ、それ故にエロス描写に臨んで、多くの作家たちはここぞとばかりに健筆を競うような文学的因習を感じる。エロスであれ情交であり要は同じこと。

 ところが、エロスはイデアとかアガペを希求する言葉として崇高でなくてはならない観想であり行為に伴って発生する感情ではない。如何に高邁で厳粛な男女間の交わりであっても概念としてエロスに昇華することは出来ないと僕は感じている。僕は倉田百三が【愛と認識と出発】のなかで「男女間の交接は殺人よりも罪が重い」という意見をその一部に於いて現在でも信奉しているのだ。意図不明なエロスなら、エロ・グロ・ナンセンスの方が遙かに解りやすい。

 瀬戸内寂聴は仏教関連の本もたくさん増産(増刷ではなく)している。それを読み尽くしてきた。しかし、それは増産という形容が至当であると気づいた時、その全ての仏教エッセイを破棄した。以来、寂聴といえばニセ坊主の感が先行して認識するようななった。
ところが、よくよく考えてみると、岩手県の某寺でおこなわれる「青空説法」では、地域のお年寄りたちに大きな感動と笑いを提供し続けてきた。その説法の内容等々は言いたい放題の放埒と見えたのだが、そういう坊主が実は存在していても良いのだ。

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美空ひばりとさだまさしさん

 さだまさしの【情継】というアルバムを聴いた。最近になって、美空ひばりに共感することしきりである。若い頃は美空など眼中に無かったのだが・・。今は、腹の底から良いなと思う。老いたのだと指摘されればその通りなのかも知れない。しかし寧ろ、成熟したのだと僕個人では思っている。美空ひばりはやはり燦然である。

 【情継】は、さだまさしが、唄人の先立としての美空ひばりに敬意を表明した内容のアルバムではない。さだが美空に共感するところ大であったからこそ、このアルバムは成立をみた。「東京キッド」から始まっているところなどは、さだの真骨頂とでもいうべきである。

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2009年2月15日 (日)

相撲界・京都大学・慶応大学生等々の大麻禍に関する評価-大麻の世界的認識-

○ マレーシアで使用すると処罰されて最悪、死刑になることもある。
○ 日本で使用すると処罰されて懲戒解雇又は退学処分となる。
○ オランダで使用する場合は一定の条件の下で合法である。

 どうしても大麻を吸引したいのであれば、オランダ国籍を取得することです。日本やマレーシアの法律では処罰されます。因みに、伊藤せいこうや、故中島らもは自分の大麻体験告白していることから事実なのでしょう。

 巷間の噂では、薬理学者・精神科医等々が学理的意図から体験として吸引する者もいるというのは公然の秘密だそうですが、その真偽は不明です。国が変われば法律も変わるのは当たり前。日本やマレーシアで大麻を吸引することは愚かなことです。たった一回の過ちが直ちに身体的健康を損ねるようなこともないようですが、たった一回の過ちで人生が破綻するほどの重篤なダメージを与え、これまで培ってきた信頼等々が一挙に破綻し水泡に帰します。だから、吸引することは絶対にダメなのです。

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瓢鮎図を解読しない

  東京国立博物館で開催されている【特別展 妙心寺】の展示物のなかでは白隠禅師による飄逸な禅画もさることながら、その白眉とするのは瓢鮎図であり、それは図画に依る公案の問いかけである。

 臨済禅の要諦は、どうも、中国を色濃く反映している点にあるようだ。もちろん、仏教はインドを経て中国を経由して日本にもたらされたという意味では当然なのであるが・・・。

 禅では、その定義を不立文字であると規定する。禅の提要は言葉にもならないの意である。故に図画としても表象されるべくもないが、公案の提示として言葉の運用をなくしては禅の禅たる禅機を発現するための始点がない。

 そのため、最低限の言葉と表象としての図画のみを存在として許しているのであり大郭な仏像等々はまったき不要なのである。そうしたモノを目当てに当該特別展を観覧しようとでかけても仏像が在ろうはずもない。禅とは、極論すれば御仏に帰依するものではなく思考することに尽きそれは哲理を看板とする窮理な考の大系なのだ。ヘーゲルが弁証法を提要したことを禅の立場から観れば、弁証法は悟りということになる。ヘーゲルも覚者であり、大悟者であり、それは豁然におこなわれた。

 それにしても、中国色の影響をモロに受けていることには些か驚いた。その仔細は知らないが黄檗宗は中国そのものだともいう。玄侑宗久が中国文学を専攻した理由が分かったような機がする。(気がするのでなく機である)

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2009年2月14日 (土)

獣医師は医師ではないということ

  昨日、電車内で本を読んでいたら飛蚊症様の症状が発現した。とうに老眼を迎えて以来、さらに老いが進行したという感慨をおぼえた。それは別にしても、知人の獣医師が、「それは飛蚊症である」とケモノではない僕に厳粛な診断を下そうとしたので、それはマテリアル・エラーであると指摘しておいた。この僕の大切な眼球に就いては眼科医だけが発言しうるのである。しばしば、獣医という一群の人のなかには、ヒト医学の臨床について一線を超えた発言を為す傾向が強い。基礎医学の部分での発言は、もちろん差し支えないが・・・。

 獣医はケモノの医者のようなものであって、明確に医師ではない。獣医の【医】の字は、医師の【医】と意味が職業特性において確実に異なる。獣医師が医師のような発言をしてはいけないのである。ヒトを相手にするか、ケダモノを相手にするかに依って【医】の字解が異なるはなるほどもおもしろい。

 今、【獣】という言葉の排斥が進んでいる。専門書に於いても、嘗ては「獣医内科学」という体裁の本が一斉に「動物内科学」という言葉に変更されている。その昔は、「家畜内科学」であった。なるほど、【獣】には、家畜とそうでない犬などの【アニマル】が存在する点において、【家畜】の斥力は正しい方向をしめしている。

 しかし、【獣】が【動物】に変容していった過程は理解に苦しむ。「ドウブツ」と「ケモノ」、「ケダモノ」の差異をキチンと検証していないから、口当たりの良さそうな言葉だけが跳梁する。近い将来、獣医師が【動物医師】になる日が到来することを預言しておく。きょうび、臨床の方では、魚はもちろんのこと、ヘビやトカゲ等々のエキゾチックアニマルまで診療対象としている由。斯くのとおり獣医学も専門化してきた。いっそ、その職域に応じた名称がふさわしいのかも知れない。病院の名称については、「バードクリニック」とか「猫の病院」等々として既に存在している。

 本日、眼科を受診してきた。加齢にともなう生理的な飛蚊症と診断された。厳密にいえば、生理的現象は生理的現象であることから、それを病気の時に適応される【症】という漢字を適用していることは条理に違反している。違反を取り締まるのもまた、獣医の職域の一つとしてあるらしい。

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2009年2月13日 (金)

人生の極意

  人が死ぬのも当たり前、老いるのも当たり前。当たり前を当たり前として捉え、それを楽しむという構えが人生の極意なのかもしれない。【人生は愉快だ 池田晶子著 毎日出版社に典拠】

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2009年2月12日 (木)

死ぬのが怖い

 そう想ったら、到底、人間稼業なんかやってられませんよ。

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 それは狂を発する。故に【酔狂】という言葉さえ存在する。

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自信過剰な人は愉快である

 今、思い浮かぶその三傑といえば、渡辺昇一・梅原 猛・これに池田晶子。自画自賛者は傍から見ていると愉快である。こういう人に共通しているのは、自己を天才と断言、又は、そのニュアンスを漂わしている点にある。しかし乍ら、僕は渡辺昇一を極度に軽蔑している。    

 その昔、宮武外骨という人がおり、その人は賞賛に値する。そういえば、鷲田くんも湖畔から身を投げて自殺して果てた。死因は失恋死。今更、【若きヴェルテルの悩み】でもあるまいに・・・。それを死に急ぎ、又は、死に狂いとも言う。そうか、葉隠れか・・・。葉隠武士が女にふられた程度で死んでいたら嘲笑の対象となる。

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そこまでしてタバコを吸いたいのか

 電子タバコというグッズがあるらしい。そこまでして愛煙家はタバコを吸いたいのか。嘗ての喫煙体験から理解できぬでもないが、正直、喫煙している様子は著しく原始的光景として感得できる。世界史の構成は、スパイス等々を始めとして嗜好品獲得の歴史でもある。また、個人史としての喫煙等々の習慣をフロイトは口唇愛とも説明したが過去におけるタバコの歴史などどうでもよい。

 非喫煙者となって九年経つ僕にはタバコは迷惑以外の何者でもない。また、非喫煙者が喫煙者の健康被害に対して健康保険料を負担するのもなんだか馬鹿馬鹿しい。現状、タバコと肺がんの因果関係については国立がんセンター疫学部でも言明していない。が、タバコが心臓疾患等において有意に悪である点においてはコモンセンスである。

 喫煙。その姿を想像して欲しい。大の大人が口唇愛的な恋慕から脱却できず、小児のおしゃぶりよろしく口にくわえ煙を吐き出す姿は滑稽にさえ映る。タバコを止めたい意思があるのに止められないのは意思が薄弱であるか、タバコを止めるための合理的手段を知らぬ者である。知らないなら学んで欲しい。

 多少の意思と自己管理意識、そしてニコチンの減感作(ニコチンパッチなどの経皮吸収タイプのものがよい)等々に拠ってタバコなんてものはいとも簡単に止めることが可能である。一日に五十本吸っていた僕でも非喫煙者になれたのである。馬鹿がタバコを吸う。喫煙に関するこだわりは僕個人のこだわりである。そのためコメントは不可に設定した。念のため申し上げておく。

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2009年2月11日 (水)

放射線科医に聴く

 【がんをどう考えるのか 放射線治療医からの提言 三橋紀夫 新潮新書】を読了した。放射線科医から発信される素人向けの本は比較的少ないように感じる。嘗て、慶応の近藤 誠が【がんと闘うな】というセンセーショナルな本を発表して話題になったが記憶を辿るとその程度である。

 素人の僕の理解のうちには、放射線治療とか抗癌剤という選択肢が俎上にのぼる時点において進行した末期がんであるという印象があった。しかし、必ずしもそうではないことを知った。幸いにも、がんにまだ罹患した経験がないためまったく放射線科医の顔というのが見えてこないのである。そんな意味から、この本は診療科としての放射線科の意味と意義をノーマルなトーンで伝えている点において、この本は一読の価値がある。

 扱っている対象が放射線なので内容的には難しい箇所もある。僕個人の体験として獣医学生時代において放射線生物学から始まって核医学というような歴程を経由して一応の放射線医学を学んだ。それは、もっぱら、放射線の持つ物理的属性、生物に対する侵襲性、読影までの課程が限界であり現在の獣医学においても放射線治療にまでは踏み込んでいないものと思える。

 現在のところ精々、CTやMRI(これは磁気だが)の読影に鋭意を傾注している程度でそれは画像診断学の域に留置している。発展性をその要諦とする学問の定義から、画像診断学から放射線治療学への発展は必然であるが現実の臨床医家には馴染まない点において獣医学にも馴染まない。医学と獣医学は異なる学問体系であることを充分に理解したい。

 当家で飼養している猫の主治医に「CTなどは導入しないんですか」と訊ねたところ、「導入すれば稼働してゆかなくてはならないし、その分、治療代も上げなくてはならないので経営的にむずかしい」という回答から、小動物の臨床に於いてさえ核医学は馴染みにくい側面が垣間見られた。大動物では論外である。牛等々の家畜において菌交代症の発現阻止などの観点から休薬期間が設定されているが、この伝で言えば放射線の半減期間というになる。さて、何年かかることやら・・・。

 最近、極力、獣医学のことを書かないことにしているのだが、ついつい筆が滑ってしまった。どうして書かないのかというと獣医学は生活の糧にすぎないと感得したからである。
 
 人生で大切なことは獣医学ではない。よって、獣医として・・・というようなロゴスの構成にはまったき興味を喪失した。仕事は仕事として誠実にマニュアルどおり履行していればよい。そのためのマニュアルであり、それは独断専行を許可しないシステムとしても機能する。マニュアルとは決まりの方法論のことに他ならない。

 さて、放射線科医とはどういう人物か。物理と数学が三度の飯よりも好きな人たちなのだ。この本は放射線を扱っていることから学問的には精緻に読まないと読み解けない部分が確かにある。照射放射線量の算定式等々、僕の大嫌いな数学的な解説も紹介されているが、算定式などどうでもよいのである。ただし、本の構成としてはだらしないほど纏まりがないこと、また、標準治療を逸脱している点には一考を要す。例えば、大概において胃がんの初期においては外科手術がファーストチョイスであろうし、治療開始の当初から放射線で胃がんを叩くというケースは考えにくい話だと了解した。あくまで可能性として初期の胃がんなら放射線照射でも治せるという話であるという点で牽強付会的でもある。

 診療科として放射線科を設置している病院はがん治療拠点病院等々である。専門として放射線科を選択する人は医師のなかでも少ないのではないだろうか。素人目にも需給関係において問題があることが忖度できる。それを見据えて著者は放射線科のセンター化を提言している。それが、本書が、「提言」と副題に戴冠している最大の理由となっている。

 放射線科の機器は高価であることから、例えば、東京において稠密に存在する病院の放射線科を連携統合し、以て、精度の高い、つまり、高価な器具を一台買おうよ・・・という提言がそれである。確かに、稠密に存在する病院がお手頃な価格の器具を複数台所持していたところであまり意味がないという点で著者の提言は正鵠を射ているものと思われた。

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臨済宗妙心寺派の躍進に寄与している玄侑宗久さん

 おそらく、玄侑宗久という坊主が存在しなければ東京国立博物館の平成館で妙心寺の特別展など開催されなかったであろう。同派に於いても、中興の祖と呼ばれる坊さんは幾足りとも存在していたのだろうが仔細に就いての知識が僕にはない。そもそも、禅系の坊主を僧侶と呼ぶのか否かも知らない。方丈だったけか。

 今、個人的な認識において玄侑宗久と養老孟司のブームは去った。が、この二人の動向には目が離せない。特に、玄侑に関しては小賢しい坊主と思いながらもその知見には感化されることが大である。玄侑の過ちとその魅力は知を横断するカテゴリーエラーに存在する。

 そのカテゴリー・エラーが負の結果として表像されているのが、玄侑が解題した【般若心経】である。玄侑が老いてこの本を開いた時、若気の至りという言葉が脳裏をよぎるに違いない。とはいえ壮大なカテゴリーエラーこそ玄侑の魅力であり、今後の逸大なる僧器を感じるのである。

 ということで、東京国立博物館平成館で開催されている「特別展 妙心寺」を観に出掛けることにした。

補遺・・・

 自宅最寄りの横浜線淵野辺駅から上野駅までが近いので助かる。(毎回、最寄り駅が異なるのは僕が徘徊者だからである)。おそらく、人生には定点は存在しない。徘徊しないで定住している人は希有である。

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2009年2月10日 (火)

詩と小説の差違

  それは詩人と小説家の差違そのものである。谷川俊太郎が出版社の要請に応えて小説を執筆に挑んだが、結局は書けなかったという。詩と小説は劃然と棲み分けが存在しており、脳の使用領域が異なる。谷川俊太郎が小説を書けないのは当たり前である。

 本が好きというだけで「小説家になればよい」とアドバイスされることが多い。好意は有り難いのだがそれは無理というもの。僕がここで示しているとおり読書傾向において最近では小説の占める比重が極端に低い。さらに言えば小説等々には大きな興味がない。

  それにしても、谷川俊太郎が小説が書けないことを聴いて安心したような心性の形成が僕のなかでおきている。小説よりも言葉の美を探求する詩の方が遙かに好きだ。僕も小説は書けないし書きたいとも思わないのである。

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2009年2月 9日 (月)

懐かしさ

それを敵として心性のなかから排除すること。

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昭和のエートスという本に知的興奮をおぼえた

  標記の本を読了した。【内田樹著 バジリコ社】という陣容である。知に係わるエッセイ集であることから特別な纏まりは無いが、強いて表現すれば昭和という点で特化、収斂しており、数多出版されている昭和本とは知の程度において劃然たる差違が感じられた。一つ一つを箴言として拾ってゆくとそこに歴然として正確な著者の冴えた視線が光っている本であり著者の強気も感じとれる。

 昭和と一言で表現しても表現しきれない振幅がある。多くの昭和レトロ本は昭和三十年代生まれの者たちによって支持されているように思える。それは忌まわしい過去としてではなく懐かしさと追想に彩られている。

 また、戦争体験の有無もまた昭和世代を差別化するための一つの境界線である。その区割りのなかでも特攻体験の有無は戦争体験の有無を論じるなかで大きな分水嶺になっているとも思われる。戦争体験において良き想い出などある者などほとんど存在しないことから戦中派の者たちは戦争体験に対して口を噤むのは必然であり、なおかつ、それは、忌まわしさを随としている。

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2009年2月 8日 (日)

「昭和の鉄道」という写真集を賞賛する-鉄道写真芸術の可能性として-

  鉄道を活写することは難しい。電車等々を撮影しているだけでは単なる車輌のデータ的な価値しか持たない無機的な写真になってしまい人心の歓心を喚起しえない。根っからの鉄ちゃんではない僕にとって車輌単独の写真は如何にも淋としている。

 そこに人が存在し鉄道の風景のなかに溶け込んでいる時、より強い印象を放つ写真とし存在感の意気を感じる。寧ろ、鉄道的な要素を極めて小さく取り込むことがツボなのである。標記に記したタイトルの写真集は芸術的とは言い難いが、人を大きく撮り込んでいる点で評価は高い。

 昨今、電車カタログのような本・写真集が増えているなかで、この本には人の気配がある。また、戦後昭和の鉄道史としての価値も高い。鉄道は習俗でもあることにも思い至る。現実において松谷みよ子が鉄道にまつわる民俗学的な伝承を収集した本を上梓している。

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労働における父性の発現

  弱い者・自分より職位が低くて傲慢でない者に対して上司は温情を以て遇してくれる。それは家庭における父権と同一のものと見なされた。昨年、大きな賞を頂戴した時のご褒美として図書券を上司個人の意思に依り贈呈を受けた。

 そこに大いなる父性を感じた。父の教えや指示には忠実であることが、家庭の実父の倣いに似て労働の提要にして要諦の第一であるものと改めて感得した。早速、その図書券で記念となるような書籍を購入して上司の意気を久遠のものとして本に刻印して嬉しい思弁を定着させた。購入した本は「ことわざ辞典」として上司の名を署名した。

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診断名 乳腺囊胞

 入浴中に妻が乳房にマスを発見したというのでレディスクリニックを受診させた。レディーのためのクリニックを開設しているのは乳腺外科を修めた外科医であり並行して甲状腺も診療科としている。クリニックという規模から手術室等々は設置していない。

 マンモグラフィーとエコー検査の結果、ほぼ、乳腺囊胞であると告知されたが、当然、細胞診もおこなった。その結果を、妻と一緒に聴いてきたのだが腫瘍性細胞の浸潤はなし。とりあえず一安心である。

 男性に子宮がんが発生しないという定義に照らすと女性には子宮と乳房が在るという点において悩ましい。米国では予防医学的見地から健康なこれら器官を切除する者もいるというがそれも窮理な選択肢である。女性ホルモン系が突然にダウンするので相当な不定愁訴に悩むに違いない。もちろんホルモン補充療法等々も用意されているのだろうが・・・。

 動物において多いのは囊胞腎である。それは水腎症との鑑別も容易であり病理発生的な機序も異なる。囊胞肝もよく知られているし、心臓においては血管腫が囊胞として観察される場合もある。感覚としては腺組織には囊胞が形成されやすいものと考えられるが、腺組織の囊胞化は獣医領域ではあまり聴かない。多分、勉強不足のために僕が知らないだけなのであろう。

 四十歳を過ぎたら、誰もが、がん年齢に突入する。幸いにして、妻は子宮筋腫もあることから定期的なサーベを実施している。まったく正常なのにサーベを続けていくのは確かに億劫だ。幸いにして妻には乳腺囊胞が形成された。サーベを妻に継続させてゆく説諭の上で格好の口実が出来た。

 それにしても、細胞診において悪性度の高い腫瘍細胞が確認されて、即、入院を勧告される場合だってある。何が、そうした命の僥倖のようなモノに感作するのであろうか。とりあえず生命力と定義しておく。

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2009年2月 7日 (土)

早朝の湘南新宿ラインのグリーン車は剣呑である

  早朝の湘南新宿ラインのグリーン車には、女性グリーンアテンダントと一緒に男性警備員が警乗してグリーンアテンダントなどを警備するために随員しています。利用客に快適さを供与するのがグリーン車であることから、車体の構造等も一般車両とは異なり揺れと騒音の低減が図られており使用している台車等も異なっているようです。

 それにしても、警備員の存在が気になって仕方がありません。きょうび、そうでもしないと女性グリーンアテンダントや利用客の身の安全が守れないのも時代なのでしょうか。多分、確からしさの確度においてそういう時代なのです。

 グリーン車に乗るのは別に女性グリーンアテンダントが目当てではなく快適性を求める所以ですから、別に男性のグリーンアテンダントが存在してもよい。男性だと不快であるという理由は見あたりません。寧ろ、警備員の制服のほうが威圧感があります。もちろん、それが安心感にも連携するわけですがどこか剣呑です。

 職域において男女の格差がボーダレス化している状況下、女性のみが独占する職業を見つけるほうが難しいような気がします。尤も、その昔、鉄道公安官という職制がありその変態として鉄道警察隊が現在に至っている経緯から鉄道を取り巻く公安の存在は、一時的に警察権力の介入が麻痺する鉄道的空間おいて必要性が存在することに妥当性もあります。

 補遺・・・

 先にも述べましたが、安全を優先すれば警備員が警乗していることは男性利用客にとっても安心材料の一つになります。しかし、それでは、空港にマシンガンを携えて立哨している米国のそれと変わりがありません。日本の空港ではそういう光景はあり得ない。だからこそ、其処に違和感を感じるのかも知れません。それにしても、乗客の安全確保は最大の要目であることから警備員による警乗にも妥当の可能性もあります。

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2009年2月 6日 (金)

日がな一日図書館三昧は最高の贅沢である

 本が好きだ。図書館に稀にしか出かけない理由は本に赤線を引き乍ら読む所以に依る。それにしても高価な写真集を眺めているだけでも楽しい。

 最近の図書館はCDやDVD等々の設置に意欲的なので頻繁に通うようになった。TSUTAYA等々でレンタルしているCDなどと異なり珍しい音源に出会うと試聴したりするのが嬉しい。ひがな一日、図書館で過ごすのは愉快である。

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2009年2月 5日 (木)

逆流性食道炎の証拠映像

 胃カメラを呑んできた。食道遠位部-胃噴門部との境界に白色を呈したリング状の炎症像が観察できた。これが僕を苦しめた正体なのであるが美しく感じられた。なお、加齢に伴い胃酸分泌量は減じてくるために発作の頻度は自然と減少してくるそうだ。

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2009年2月 4日 (水)

午前五時四十分の企業戦士たち

  毎朝、標記の時間に出勤している。最寄りの近鉄奈良駅に着くと、見知った顔のオジサンたちが既に蝟集し寒そうにしている。彼らと話したことがないのでどんな仕事をしている人たちなのかは知らないが、同じ早朝出勤者として強烈なシンパシーを抱く。ぱりっとスーツを着こなした人もいれば、既に交通誘導員の姿をしたままの人もいる。

 僕は、そんな彼らをみて、「ご同輩、きょうも頑張ろう」と心のなかでつぶやきかける。姿のみえない者がいると風邪かな・・・などと要らぬ心配もする。同じ早朝通勤族として親愛の情はなお深いのである。彼らは一日の始めにあう最初の同僚たちであると認識している。

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2009年2月 3日 (火)

裁判員は自己の誠実に基づいて他殺死体の供覧を拒否する権利が担保されてはならない

 法医学に学問的関心を抱いたことがある。それは良心に誓って興味本位の怖いもの見たさではなかったものと断言できる。病理学を学んだ体験から異常死に係る肉体的変化は如何なる様態を以てして特徴化されるのかを知りたかった。

 そのような学術としての法医学にアプローチした時でさえ、変死者は非法医学者的なる者の容喙を断乎として拒絶するのである。どういうことか。僕は、二度に渉って非法医学者の身分から変死体に文献学的に接近した際、二度とも甚急性のフラッシュバック体験をした。変死体が専門書の随所に掲載されていたのが原因である。

 それは、PTSDともいえるフラッシュバックの体験は強烈であった。規定の精神安定剤の十倍量を服用しさらに薬理的に増強作用のあるアルコールを鯨飲して、やっと、落ち着きを取り戻した。あんな痛烈な体験を僕は今後において発現したくない。そも、強姦殺人の被害者の写真等々を証拠としてみたいかと問われれば見たくないし話も聴きたくない。

 そうした証拠写真をみたり話を聴いたりするとゲンナリと気が滅入ることは想像に難くない。その体験を強いることは国民の義務としては些か荷が重すぎる。もちろん、そんな残虐な写真等々を素人にそのまま供覧することはないだろう。が、殺害された被害者にも人権がある。死者に人権がないと思ったら大間違いである。

 自分が殺害された等々に関しては、秘匿しておきたい窮理な個人情報である。如何なる方法で殺害されたとしても、それを僕は最大の辱めだと感じる。それを素人に云々されたくたくないのは当然のことわりである。変死体は法医学と司法と警察に対してのみ祟らない。ここでいう祟るとは怨霊等々の話でなく、換言すれば、変死体は法医学を含む司法にのみ体躯を委ねるのである。

 強姦殺人を例にひいたので、この伝で例解すると、裁判員制度は、犯罪被害としての強姦して殺害された後、被害者はさらに屍姦のうえ輪姦されるという辱めにあうようにものなのだ。先にも述べたとおり、現実には三次元CGを使用するなど素人の裁判員宛には、その残虐性の希釈のために相応の配慮が為されるだろうが、その本質は被害者の感情から述べれば、素人に開示し議論して欲しくないものであると想像されるのだ。被害者の権利。それは従前から被害者遺族によって声高に叫ばれているのだが、いっこうに司法・マスコミには伝達されないまま無視されたまま現在に至っている。

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2009年2月 2日 (月)

骨董とは何か

 それはたぶん、いにしえ人に対する興味である。

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「41歳からの哲学」という本は平易である

  標記の池田晶子著の本を読了した。池田節もいよいよ冴えに冴えてきた。著者に依れば、41歳とタイトルに標榜したのには深い意味はないと述べ、サブタイトルには「考えることに手遅れはない」とある。

 類書として、「14歳からの哲学」という本も上梓しているが、こちらは、より哲学の提義等々を平易に中学二年生に伝えようという意思のもとに執筆されているために著者自らその難解性を告白している。池田には中学二年生に対しての思い入れがある。属性として中一は子供、中三は大人。つまり、中二を人生における一つの分水嶺と位置づけている。

 指摘されるとそのとおりなのである。中一までは世界が一つに纏まっている時期でもあった。中三になると、「あいつとは世界が違う」とばかりに同程度の者と交友等々を結ぶようになる。そうした階層的な、おもに偏差値に依って分断された差違ともいえるが、そうしたことに否応なく直面して切羽詰まるのが中三なのである。多少の分別もつき、「オレの頭では宇都宮女子高のような優秀な学校にゆくあの女の子は高嶺の花だな」などと思うようになる。

 一般的に中二は、子供の出口、大人的価値観の認識的な入り口として池田は捉えている。その感覚は、現今、または、将来においてまったく自分とは別の人種になり得る者がいることを覚明する時期なのである。それを指して自我の認識とでも呼ぶのかもしれない。
現実に、僕の同窓には阪大の数学科で準教授をしている者がおり、中二頃からいきなり疎遠となった。

 【41歳から哲学 新潮社 池田晶子著】という本は、世の中で発生した刑事事件等々を哲学的に解題したという点において、それは寧ろ、平易である。尤も、形而下のコトを形而上学的に表現できるのかという問いかけも可能ではある。

「存在とは何か」を常に問うている池田にとって世俗的な事件も形而上学的な思惟の対象になる。否、寧ろ、事件等々を一つの手懸かりに存在論的な立場から思惟と洞察を賢察している点においてこの本は的確に一つの哲学的思惟の素を成立しているのである。

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2009年2月 1日 (日)

大宮駅にみた京浜東北線用電車の奇跡

信越本線の新津に所在するJR東日本新津車両製作所で造られたピカピカのE233系京浜東北線用電車が大宮駅の高崎線ホームに停車しており行先幕には試運転と表示されていた。新造車は新津から遙々と自走してくることが想像できた。

(参考) http://www.ejr-niitsu.jp/

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論語の今更に-人間が人間として正しく生きるための指針となる典籍として-

  漢字が好きである。当ブログでも意識せずに漢字の無限性を手懸かりに勝手に漢字の単・熟語を造っては書き散らしているのは漢字に可塑性があるからである。そんなわけで【中野孝次の論語 中野孝次著 海竜社刊】を読了した。

 漢文はよい。そのリズムが心地よい。やはり、声に出して読みたいものである。この本は、中野氏が私家版的に論語を読み下した本であることから、「中野孝次の・・・」というタイトルになっている。中野孝次といえば、言わずと知れたドイツ文学者であり、【ハラスのいた日々】や【清貧の思想】等々は人々の歓心を喚起した。

 本業のドイツ文学の業績は幾足りのものか知らないが、國學院において教鞭を執っていた由。個人のブログなので個人のことを書くのを許してもらいたいのだが、僕は、日本文学者を別にしても、ドイツ文学者に対しては至上の価値をおく。それは、おそらく、ドイツ語が精緻な文法を要求していながらも、それはただしく正確で、響きにおいて他の言語を圧倒して止まない美しさを湛えていると思う所以による。

 さて、論語である。端的にいえば、江戸の幕藩体制の基礎・武士道の基礎となったのは論語である。人の生き方の規範として論語は宗教とは別の側面から真理を照射している点でそれは刮目に値する。日本が鎖国政策を終えて海外列強と対峙した時、媚びず、諂わず、奢らず、正しく威厳を示し得たのも論語が日本的教養、又は、行動規範になっていたことを既に多くの識者が指摘しているところだ。なるほど、論語には、それだけの言の葉の力がある。

 日本の今日的状況の変革を為すには論語教育を採用するのが手っ取り早い。しかし、最早、日本には論語を受容するだけの基盤がない。子供・教師・公務員・政治家・会社員、あきんど、皆、然り。もちろん、僕だってそれを訴免されるわけではない。が、論語を子供に通謡させ、大人が論語的規範に沿ってモノゴトを考え行動すれば日本は必ずよい国になる。今さら、「子曰く」の時代ではないのかも知れないが真理は古典のなかにあると僕は信じているし信じたい。

 論語のことを書いた。しかし、どちらかといえば「菜根譚」のほうが僕の好みである。
まっ、同じ土俵の上で論じるべき書物たちではないのであろうが・・・。

 知において尊敬できる知人に論語の持つ素晴らしさを説いた。すると彼。論語程度のことは池田大作の「人間革命」にも書いてあると言われて落胆した。創価学会のことは能く知らないが、その本が論語を凌駕するとは思えない。

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