【死と生きる 獄中哲学対話 池田晶子 陸田真志 新潮社】を読了したが不思議な内容を湛えている。陸田真志は死刑囚(執行既遂)である。一方、池田は哲学者。この二人の往復書簡という体裁の本である。
死刑囚と作家等々の往復書簡集自体は決して珍しいことではない。しかし、この本は、従来のそうした類の本とはトーンが明らかに異なっている。池田は、よくよく死刑囚に魅入られるようで以前には、永山則夫からも往復書簡の遣り取りを希望されたという。
永山といえば【無知の涙】を上梓し貧困家庭で育った故に依る社会に対するルサンチマンと、無知が故に犯した犯罪について韜晦している点で衆目の関心を惹起した。池田は永山の思想のような体裁の形骸に見るべきものなしと一蹴し希望には応じなかった。永山が罪一等を減じてもらうためのパフォーマンスを池田がその慧眼から見抜いていたと言ってもよい。
陸田真志の場合、池田に対して一読者として純真に感想を書いて送った。その一文から池田は陸田のもつ哲学的資質を直感し、往復書簡の遣り取りが開始した。陸田に哲学的感性を見いだしたとしても、池田が何故、陸田にこうも関わる理由がよく分からないのである。陸田が一審で死刑判決を受けた時点において控訴をしない方針を選択した時に、池田は控訴するよう強く命令している。それは人道的配慮からでもなく反省を省察させるためでもない。特意に強調しておくが、強い口調で面罵するような態度で控訴するように命令指示・強制をしている。
池田は、陸田に対して様々なことを命じている。陸田の書いた文書に書き直しを命じたり、或いは、その文書を評価を下している。褒めることもあるが、此所まで言うかと唸るほどに痛烈な批判を下すこともある。陸田も陸田で、指摘されるままに池田に迎合するような文書を書いている。通常一般において、こうした往復書簡の形はあり得ない。
池田が陸田に望んだことは何か。もちろん、贖罪そのものではない。おそらく、池田は陸田にソクラテスを重層して見ていたのである。刑死の様態としてソクラテスは、その一命が助かるにも拘わらずに、自らの思想のために死刑を諾として受け入れた。一方で陸田の方も、盛んにソクラテスを援用し乍らも、殺人者としの自己を自覚しつつ(それが控訴しなかった理由ではないが)死に就こうとした。それは宅間 守の死刑執行願望とも異質のものである。
ソクラテスは思想に殉じたことから他者に迷惑をかけていないのに対して陸田は二人を殺害している。その点において二人の刑死の意味は絶対的に差別されるが、陸田には、贖罪でもない、死刑執行願望でもない第三の刑死願望があった。もちろん、拘置所生活における拘禁反応の忌避でもない。それは、やはり、哲学的な死と表現するより他に言葉が見つからない。さらに追求して表現すれば【存在論】に依拠した思想の系なのである。
実は、池田は陸田に対して様々なサポートをしていたことを本文で、チラチラと見せているが、池田の文言に係わる本質は、あくまで女王様なのであり思想的なサディズムである。池田という人は、現実世界においてはおそらく優しい情の溢れたよき婦人なのであろう。が、一旦、思想の世界に入ると鬼に化す。陸田が死刑を執行された時点で、池田は慟哭したはずである。それは、一回だけ。それは冷淡なのではない。池田は思惟すること以外に興味がないのだ。強いて指摘すれば犬に対しては人間以上に愛情を傾注した。
陸田と池田との対話は、この本一冊で終わっている。それは途絶したという印象が強い。存在論を基盤とした哲学的感性をもった死刑囚がいた。それに対して池田が興味をもった。で、少し往復書簡をしてみた。そして双方が興味が無くなって終わり。いかにも尻切れトンボのような感が払拭できないが、二人には二人なりの事情もあったのだろう。
死刑確定以後、末期の人生を思索に費やす一群の者たちがいると聞く。鬼哭啾々たる犯罪を犯しながら、斯くも魂の浄化と、余人には到底不可能な深い思惟を形成することについて、どのように判断したらよいのか迷う。ただし、それは、安直な死刑廃止論とは直結しない旨、申し上げておく。
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