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2009年1月

2009年1月31日 (土)

ホスピスを扱う本がブームである昨今の心像風景

 嘗て、【自分探し】を試みる一群の人がいた。ご多分に漏れず僕もそれを為した一人であるが、結果として自分探しの無意味を悟った。自分の実態は現実におけるその上でも下でもない。

 一方で、斯くもホスピス本が流行るのは、考え方としては【死に場所探し】の所作であるものと考えられた。現実の問題としてホスピス適応になるのは、がんに限られるため、相当な苦痛が予想される肺気腫等々では適用外であるこを銘記とすべきである。

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遊びにゆきたし傘はなし

  北原白秋は標記のように雨天の無聊を哀愁を込めて表現したが、井上陽水は「傘がない」と直截・乾燥にその心像を表現した。

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詩人とは何もかも詩として昇華してしまう者のことをさす

  谷川俊太郎ブームである。谷川もまた、死についての洞察を詩的手法を駆使して開始したといってもよい。相次いで、谷川本が出版されている。そんななかで【谷川俊太郎質問箱】という本を読了した。

通俗的なことや、ロマンテックなこと等々を質問として谷川にぶつけて、それに対して谷川が応答するという体裁を採っている本である。その回答一つ一つが詩編として昇華している点もさすがは谷川俊太郎である。装画も一つ一つ意趣が感じられて、だいいち、可愛らしい。

 この本の仕掛け人は、コピーライターの糸井重里である。彼も、筑紫哲也が朝日ジャーナルの編集長の頃に揚躍した。また、NHKの「you」という番組では、難しいことを生業としている人から、難しい内容を聴き出しては、平易に僕たちに伝えた。

 糸井の力量は、企画力・発想力・コピーライターとしての言葉の運用の卓越性が高く評価できるが、言葉にならない言葉を言葉として観想して易しく相手に問いかける力量には敬服する。その自然体から、「ふわっ」と本質的・核心的な言葉が発せられる点において少年のようなピュアな魂の持ち主であるとみなすことができる。

 それは、やはり、言の葉に携わる者としての稀才とも判断されるが、糸井の場合、その自然態において天才性がうかがわれるのである。
 
 コピーライターの仕事は広告に関して簡潔な詩を紡ぐ行為である。商品を詩的手法で説明するのが彼らの仕事であることから、詩人谷川俊太郎とコピーライター糸井重里の協働に依ってなったこの本は斯くまで美しい魂の発露として成立したのである。

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2009年1月30日 (金)

ヒトは生涯において何頭の豚を食い尽くすのか

 一頭分の豚肉を消費するのに平均して三年間かかるという話を聴いた。三十年で十頭を食い尽くす計算になる(←数学が苦手でもその程度の計算は僕にもできる)。一方、牛一頭は豚の三頭分に相当することから一頭の牛からとれる筋肉を消費に要する期日は九年ということになるのだそうである。

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2009年1月29日 (木)

言葉が万物を創っている

  名前が無ければ、そのモノは存在しない。言葉で世界は構成されている。【池田晶子】 

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飲水欲と口渇感

  それは字解において相当の差違が存するが糖尿病を標的として危惧を要する場合、臨床症状を語るための単なる言葉の遊戯にしかすぎず求められるべきは、やはり、エビデンスということになる。

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2009年1月28日 (水)

自治医科大学附属病院に入院してから一年が過ぎた

 以来、慢性頑固な副鼻腔炎の再発もなく現在に推移している。鼻が通る。それは素晴らしい体験の甦生ともいえる。

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マザー・テレサの家族との別離

  マザーは、アルバニアに生まれ裕福な家庭でキリスト教に薫陶されて育った。本名はアグネスという。シスターとしてインド(後にインド国籍を取得している)に赴こうとした時、母は煩悶しながらもそれを許した。

 他方、アルバニア王に仕える近衛武官だった兄が反対した時にマザーは次のように述べた。「お兄様は百万人の人々の王様に仕えているのでしょう。私は全世界の王様にお仕えするのです」

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2009年1月27日 (火)

死の人生観

  生きていれば死ぬのは当たり前で、この当たり前を当たり前として認識しているかどうかで人の人生観は変わってくる。(中略) 悩み・苦しみというのは、人生には先があるとする錯覚的時間認識であり、それは気の迷いである。未来への不安、過去への後悔。それらはいずれも時間認識の勘違いなのであり、それらで苦しんでいるのはまさしく現在であるという点において過去でも未来でもないのである。【人生は愉快だ 池田晶子著 毎日出版社に典拠】

 ニーチェが「瞬間に生きよ」といったのもこの意が含まれているものと考えられた。

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2009年1月26日 (月)

ジョン・レノンとマザー・テレサ

  愛と平和を訴えてジョンがピアノを弾いて愛の詩を歌う前に、先ず、見捨てられた者たちの泥を拭ってやるのがマザーなのである。ジョンが愛の夢想家なら、マザーは愛のプラグマティストである。【アンセルモ・マタイス=「マザー・テレサ」という本の著者】の言葉。

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当たり前は当たり前である

当たり前は当たり前である

 当たり前がどうして当たり前かを考えないから、それがどうして当たり前かを分かってない人と、当たり前がどうして当たり前かを考えるから、それがどうして当たり前かを分かっている人とでは、当たり前の自覚が違う。【池田晶子】

☆ それは当たり前なので当たり前な話なのですが、なんだか早口言葉の練習のようです。

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2009年1月25日 (日)

哲学と神経症もしくは狂気

  哲学は窮理なことも一応は思惟の対象とするため、答えが出てこないケースが多々あり、それに拘泥し続けると、それこそ狂を発しかねない。例えば、「宇宙の無限性」等々を考えてもそれは窮理な設問である。そんな思考癖も、それはそれで、やはり一種のノイローシスともいえる。

 手を何時間も不条理に洗い続けている一群の人たちがいる。それも一種の癖であり、寧ろ、癖の領域からの逸脱、すなわち、神経症として臨床の対応が必要になってくる。

 上記の二例を比較してもそこに基本的な差違は存在しない。前者は不可知という点、後者は恐怖という点においての特化しているだけである。手を洗い続けてもバイ菌をすべて落としきることなど不可能であるばかりか、寧ろ皮膚の健康を損ねるという意味で有害である。

 両者とも事象にとらわれているという点において病的であり、そこに質的な差違は存在しない乍らも、特に、数学を含む人文系の者に発狂者が多く存在するのは、やはり窮理なことに挑んでいる所以に依る。もちろん、素粒子物理等々の分野も窮理な世界ではある。が、自然科学ではエビデンスを発見することが可能であるという点において哲学とは一線を劃す。

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2009年1月24日 (土)

故池田晶子さんは変わった人であった-変人の僕がいうのだから間違いない-

  【暮らしの哲学 池田晶子著 毎日新聞社刊】を読了した。池田さんに対する評価は毀誉褒貶において著しいものがあると思える。もとより彼女は自分についてこない、ついてくることができない読者など一瞥することなく切り捨てる姿勢は女王としての貫禄さえ感じられる。ご自身が述べているとおり、お会いしたら取って食われそうだ。

 僕の眼差しとしては、「嫌いではない」という程度か。確かに主張していることは論理的には正しいし間違ってはいない。思弁は冴え論理は明解であり、なおかつ明解すぎるのである。しかし、その強引な論理展開には、やや、辟易しなくもない。いやはやなんとも烈女である。

 執筆者の人格は著著にも反映されるが、著書がおもしろければ著者の人格はどうでもよい。一連の池田作品はおもしろいかと問われればおもしろい。当分、池田哲学に拉致拘束され洗脳されそうな恐怖を感じるという点において池田哲学は麻薬に近いものがある。他方、池田の本を読んで哲学が嫌いになる人もそうとう数、存在するだろう。哲学をより以遠なものにする可能性も秘めている。

 急逝された今、その才は惜しまれて止まない。・・・なんて弔意を表明すれば、「人生、死んだほうが勝ち」と嘯くはずである。

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2009年1月23日 (金)

マザー・テレサはイエスの祝福である

  【イエスを愛した女 マザー・テレサ 聖女の真実 アンセルモ・マタイス著 現代書林】を読了した。著者は元 上智大学の副学長の要職にありマザー・テレサとも親交も深い。魂を震撼させられるような本であるため、サマリーや感想は書かない。随時、本から言葉を拾ってゆき、ここで、披露することとする。

 マザーの活動をみている限り、キリスト教というのは真の意味で宗教という感がよぎり博愛という言葉が現実味を帯びて感じられる。一方、仏教における博愛等の精神は、なかなかに発見は難しい点において、それは、やはり、宗教思想・宗教哲学として表現されるのが適当とも解される部分もあり、現実において、社会還元、又は、奉仕活動を、より積極的に実践しているのはキリスト教においてその優位性があると感じられた。

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2009年1月22日 (木)

英国人は気質として幽霊が好きなのである

 【幽霊のいる英国史 石原孝哉著 集英社新書】を読了した。世界史に疎いため、史実に就いてはまったく理解不能であったが、幽霊に斯くも親近感を抱く英国人の国民的心性には唸った。

 処刑などの不遇の死を遂げた国王は決まって幽霊と化して古城などに現われる。しかも、現われただけで、特段、人に災禍を齎すということがないのである。そこに、日本の平 将門・菅原道真などにおいての差異を認めうる。

 英国は幽霊は歓迎されるのである。その心性は、日本の妖怪・座敷わらしの認識的見解と酷似するが英国には妖怪は存在しない。寧ろ、妖精という形の異型は存在するが、それが直ちに日本の妖怪に相当するものであるかに就いては熟慮を要する。また、精霊とか聖霊はキリスト教を背景として生成された感もある。また、天使はキリスト教そのものの素材であり、仏教でいうところの各種の仏に相当するのだろう。

 「祟る幽霊」ではない英国のそれは、日本の「祟る幽霊」とは、その性格において確実に一線を劃しる。それを傍証するかのように、英国では、幽霊=ゴーストの出没するアパート・マンション・家屋には付加価値が発生し賃貸価格などが一般に高いのが普通なのだそうである。また、各種の幽霊見物ツアーも設定されているそうだ。

 勿論、科学的態度を頑なに堅持して幽霊などと一蹴する英国人も少なくない。しかし乍、悪さをしない幽霊を寛容する英国人の心根には他生の「優しさ」のようなものを感じて、また、一種のロマンとも表現できた。この本は、タイトルの示すとおり軸足は英国史になっている点で、冒頭にも述べたが世界史に多少なりともの知識があれば、より深い読み物になる点において、それは、確実である。

 補遺

 ポルターガイストという現象がある。それを英国では幽霊ないしゴーストの仕業と考えているのに対して日本では妖怪の仕業であると考えていることから幽霊性と妖怪性を探るための端緒が其所に存在しているのかもしれない。怨霊退散の思想として、米英ではゴーストバスター、日本では調伏。その認識的差違も興味深いものがある。

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2009年1月21日 (水)

オバマ大統領とアメリカの猫たち

 イエス ウイ ニャン・・・と鳴いた。

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臓機

 心臓は、たぶん、臓器というよりも臓機としての性格がつよい。

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2009年1月20日 (火)

池田晶子における死の方法

 【人生は愉快だ 池田晶子著 毎日新聞社刊】を読了した。一応、哲学書なので読み飛ばすことは不可能である。精読の価値がある一冊であると思えた。まず、古今東西の思想家が思惟を為した死への問いかけ、すなわち、彼等が、死をどのように問うたかを紹介したのち、それに対して池田が意見を述べるというような体裁を採っており、例えば、カントの実践理性の部分の何処が弱いのか等々を指摘しているほどの気鋭である。

 綺羅のような哲学者たちが思惟を重ねて導き出した死の哲学を縦断し睥睨している点において僕らのような読者は喘ぐことになる。なるほど、それぞれの哲学者の名前の聞いたことのある人ばかりである。しかし、その要解の附記がなく、いきなり、ヴィトゲンシュタインの場合・・・といわれても、名前こそ知っているものの即座に応答する準備はできていない。

 しかし、著者は、「哲学エッセイ」という分野を樹立して考えることの大切さを説いた点において偉大である。慶応の哲学を卒えた後、「池田哲学」と呼ばれるような体系としての哲学こそ樹立していないが、それでも立派である。おそらく、大学の哲学科で哲学を学ぶことは、哲学者の追体験であり、その解釈が主な学びなのであろう。勿論、教授職にあるような多くの研究者も同様の姿勢の域を出ないことは研究紀要をみても一目瞭然である。寧ろ、西田幾多郎のように哲学を打ち立てる人物が稀ともいえるのであろう。

 僕自身の好みの問題なのだが、西洋哲学は取りつくのに難儀なのである。東洋哲学において、思想家としての宗教家の言葉等々のほうがはるかに観照がしやすい。東洋と西欧の哲学の差異が歴然として存在していることは著者も認めているところである。

 蝶が、綺羅のような哲学者たちの死の観想に心の赴くまま羽根を休めるように、著者も心の赴くまま言の葉を紡いでいる。それは、時として、主観に基づいた辛辣な言葉を運用している。勿論、主観に基づかない認識という独立個人の心性の様態は存在はしない。

 それにしても、この著者の斯くも凄まじい自信の来歴は何処を根拠としているのであろうか。ちなみに、僕と年齢が近い女性として岸本葉子・香山リカがおり、池田晶子もその一人なのである。その圧倒的な知の優越性の発露として高飛車とも解される池田の言動は、
岸本・香山を圧倒してやまない。

岸本は東大経済学部・香山は東京医大医学部、そして、池田が慶応文学部哲学を修めているという点においてそれは了解できる。すなわち、森羅万象、(学問的)思惟の原点は須らく哲学にある。哲学的思惟からすべての学問的思惟が開闢したのである。物理・化学・医学然り。哲学こそ学問の原点なのだ。

 それ以上に、池田には、切羽詰まった事情がある。池田は、既に、この世の人ではない。
池田は2007年に腎臓がんのために没している。2008年になって、この本は初版出版されている。勿論、遺稿集でもないこの本は、「死んでからでも本はだせる」とも銘打ってある。そこに一つの哲学的感慨を見て取れるのだが、池田は、この本をがんとの闘病過程のなかで執筆したはずである。

 しかし乍、徹頭徹尾、死を哲学的に思惟して、弱音や死の恐怖など片言も口にしていない。死の妥当性を理論的に受け入れている。身を以て死の普遍妥当性を示した点で高僧の説法にも似た悟り、否、悟りのような曖昧な形ではなく、あたかも、数式によって死が導き出されたような論理的整合性をもったまま死んで逝った。また、あまりにも早かった死のおとないに就いても特段の論及はしていない。
  
 ついでに言えば、岸本は、がんに罹病後、がんに就いて徹底的に考えて一つのスタイルとしての精神的乾坤のようなものを提示した。岸本も気丈ではあるが、文体等々から女性らしい愛くるしさが感じられる(容貌等々ではなく・容貌も聡明にみちている) 。

 香山に関しては、死への視座は皆無に近い。精神科医としての精神現象に特化しており、 女性としては、どちらかといえば池田に近いが、思惟において池田のような気負い感じられない。ともあれ、今後、池田晶子の本を可能な限り読んでみようと考えている。

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2009年1月19日 (月)

経鼻的な上部消化管内視鏡検査は性に合わない-鼻粘膜は繊細である-

   一月は体躯のメンテの月でもある。先日、予定していた眼科検診は他病発生のため延期したが近々にも受診予定でいる。また、肝機能のサーベも現在において未受診のままに放置してあるので、こちらの受診も焦眉の急を要す。

 本来、インフルエンザが蔓延する季節に医院を受診することは賢策ではないが、止むを得ない事情があるがそれは書かない。ところで、現在、経鼻の胃カメラがあるという。個人の趣味では、鼻に管を入れられるなど金輪際ゴメン蒙りたい。何故か。鼻粘膜は繊細である。口腔ないし食道・胃部粘膜は重厚である。

 体躯の穴から管腔を挿入されるは性に合わない。尤も、口腔だって体躯のなかでは一番大きい穴である。胃カメラを呑むのは好きでもないが、嫌いではない。胃の粘膜上皮の化生という状況にあって年一度の上部消化管内視鏡検査は欠格できないのである。

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2009年1月13日 (火)

パール判事の偉傑

 【パール判事 副題 -東京裁判批判と絶対平和主義- 中島岳志著 白水社刊】を読了した。NHKの週間ブックレビューで紹介された本であることから気にしていた本である。みすず書房とか白水社とか岩波の本を読む時には一抹の緊張感が漲るものであるが、この本は高踏的ではなく実に読みやすかった。

 パール判事を考える時、事後制定法の遡及的運用・インド・植民地・日本の近代化・イギリス・世界平和・原爆・ガンジー・絶対平和主義・戦争・等々がキーワードとしてあげられるが、きょうは精緻な分析をせず読了という事実のみを識す。

 特段に配意しなくてはならないのはパール判決を意図的に歪曲している輩をはじめとする反動勢力が存在するということである。パールの胸像が靖国の遊就館に掲げてあることにも驚きを禁じ得ないのである。それはパール判事の意に染む行為ではないことは想像に難くない。パール判決を根拠とした大東亜戦争肯定論に至っては笑止である。

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2009年1月12日 (月)

ベントレーというクルマに乗っていた白洲次郎は格好がよかった

  【白洲次郎の青春 白洲信哉著 幻冬舎】を読了した。著者は白洲次郎の孫にあたり、次郎のケンブリッジ大学留学時代、イベリア半島のジブラルタルへと旅行した時の行程を追体験する旅という体裁をとっている。

 次郎の妻は白洲正子。日本文化の正統な継承者として夙に有名であり、信哉の祖母に相当する。また、小林秀雄は信哉からみると母方の祖父になるなど、信哉を取り巻く血縁は錚々たる面々が揃いに揃っている。

 一般に、紀行文から得られる知見は少なく、残念乍らこの本もその幣を免れていない。今般、この本を読もうと思ったのも、白州正子の夫としての白州次郎とは一体、何者なのであろうかという疑問に端を発している。要するに、信哉氏の感慨等々についてはどうでもよいのである。さらにいえば白洲次郎もどうでもよいのである。

 寧ろ、白洲正子の夫という点において興味を惹かれたのが原点なのである。が、白洲次郎という威容・偉容の前にして震撼ともいえる感慨をおぼえた。その行動はダイナミックの一言に尽きる。

 白洲次郎の歴程については、未読乍ら【白洲次郎占領を背負った男 北 康利著 講談社刊】のほうが詳しいだろうと思えるのでこちらに譲りたい。近々にも読む予定をしており既に入手してある。

 【白洲次郎の青春】という本は造本において巧みがある。その装幀は卓抜であり、ついついフラッと買ってしまう蠱惑性もある。それも、幻冬舎の仕事の技巧の為せる業と形容するべきであろうか。

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2009年1月11日 (日)

信仰に背理する制度としての裁判員

 平成二十一年一月十一日付けの読売新聞紙面のトップにおいて裁判員制度と信仰の問題が取り上げられていた。この問題には当ブログでも早々に着目し危機感を抱いていたので既に記事として取り上げている。

 死刑制度の是非に関して本格的な議論が熟していない状態のもとでの裁判員制度の発足は時期尚早なうえに、法と宗教は相互に独立した事象であることから法に宗教が容喙することが有ってはならない点においてジレンマが発生する。

 他方、宗教に対して法は必要最低限度の範囲において介入が可能であるとも解される。例えば、個人的には合理性を欠くと認識しているが、エホバの聖人における輸血拒否等の案件は成人した個人の自由意志において認められなくてはならない権利の一つであるとも思える。一方、信仰の要諦を理解していない幼児の保護者に拠る一方的な輸血拒否は訴追対象とされて然るべきであるとも思える。

 また、公衆衛生に関する法にあっては、公衆という文言において個人やその団体を特定しないという特性から法に対して宗教が容喙する余地は皆無であると思える。概念としては【公衆衛生に対する罪】というべき言葉も想定できる。

 宗教者も国民も一人であることから法の適用を免れることはできないが、法の運用に関与する義務は憲法の思想・信条・信仰・職業選択の自由に照らすと発生してこないものと考えられる。

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2009年1月 9日 (金)

右翼と左翼の歴史的形成過程

 【右翼と左翼 浅羽通明著 幻冬舎新書】を読了した。好著であると思えるので世界史を勉強してから再度、チャレンジしようと思っている。著者の経歴等から【てきとう】な本だろうと安逸に読み始めたが、結果としては、手ひどい火傷を負う結果となった。良くも悪くも幻冬舎らしい本と言ってもよい。

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2009年1月 8日 (木)

世界史に疎い

 それは直截、人生をつまらないものにする。世界史を体系的に勉強しておけばよかったと悔やむ。読書生活に重大に禍根を残す結果となり、今、些か、困惑している。

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キリスト教と裁判員制度

 「人を裁くな」とイエスキリストは言っておられることから、裁判員制度は思想・信仰の自由を保障する憲法に抵触する可能性が絶無であると断言できるのだろうか。また、日常的に人を裁いている裁判官のなかにはキリスト者は存在しないと考えてもよいのだろうか・・・。

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2009年1月 7日 (水)

生の目的は長生きすることではないが長寿は慶祝の価値がある

  長生きを一義とした考え方は馬鹿馬鹿しい人生観である。人生において長生きという要素は一つの現象にしかすぎない。人生は主観に基づいた密度の濃淡で価値が決定する。しかし、長命は寿ぐことであることに変更はない。

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2009年1月 6日 (火)

システムとして仕事

 そういう労働の様態は存在しうるのであろうか。因みに、曾て、日本エアー・システムという会社が存立していた。

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養老孟司さんの脳の形

 【うちのまる 副題 養老孟司先生と猫の営業部長 有限会社養老研究所編 ソニーマガジンズ刊】という本のなかに養老氏の書斎の様子が収載されていることから、これが碩学 養老氏の頭の中身・又は、脳味噌の形なのだと思った。

 「うちのまる」とは養老先生がご家庭で飼養している猫(スコテッシュ・フォールド種)のことであり、有限会社養老研究所というのは令嬢の養老暁花さんが遊び心から命名した会社で実在していないようである。猫と養老先生のツーショットの図はよく似合う。猫にむかう養老さんの顔は天真爛漫で子供のようで微笑ましい。しかし、自分と人には厳しいかたでもある。

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2009年1月 5日 (月)

仕事始め二句

○ 電話早吾を待ちゐし医務始[五十嵐播水]
○ 創傷の抜糸を仕事始めとす[有泉七種]

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2009年1月 4日 (日)

お正月のイリュージョン

  楽しみにしていた長期休暇も本日で終わる。それも、また、仏教でいう無常迅速の一つである。正月休みなど始めから無かったと思えば休暇の丸儲けである。三六五日が正月休という人は存在しないので、休暇明けの憂鬱から一人自分だけが逃れることは不可能である。

 それにしても、月を正して、又は、正しい月を平成二十一年の御代の劈頭に年神様によってもたらされるのは慶祝の至極である。

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体育系単科大学の意地をみせて欲しいと願っていた

 箱根駅伝などの大学生に依るスポーツ大会を観戦する度に感じることなのだが、体育系単科大学には更なる気焔を吐いてもらい来年は捲土重来を期してもらいたい。「きみたちは体育学の学士予備軍でしょ」と要らぬお節介と知りつつも繰り言を言いたくなる。それは、僕は単科大学に親愛の情を感じる所以でもある。

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新年の劈頭に寺社に参詣することを初詣という

  大抵は、普段、行かないような大きな寺社に初詣に行くのが日本人一般の民俗的行動であり、初めて当該寺社に詣でるからこそ初詣。一年のあいだに二度も三度も参詣しないことから初詣は初詣として機能していない(複数性があってこそ一回性も存在する)点において初詣は純粋に宗教的行事として成立せず、寧ろ、正月に付帯する民俗学営為として認識されるべきである。しかし、一回性を科目として掲げながらも神仏に幸多かれと祈るその心性は尊いものがある。本来、近くの寺社や菩提所に詣でることが初詣の要諦であると思えるのだが・・・。

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人間は悩む葦でもある

  【[悩む人間]、[苦悩する人間]はただ、運の悪い不幸な人間なのだろうか】という姜尚中氏の問いかけは人生の核心を射抜いてるように感じられるのである。

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2009年1月 3日 (土)

瞑想する場所としての書斎

 宗教的な意味ではなく、単純に思惟の試行を固めるなら書斎にはパソコンを設置しないほうがよい。

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対本宗訓は医師免許を取得して僧医として胎動を開始した

  【僧医として生きる 対本宗訓著 春秋社刊】を読了した。前著の「禅僧が医師をめざす理由」では宗門を去り医学を志す理由の説明責任を果たし、掲げた本では、医師になったことの経過説明とその報告をしている。前著を読んでおかないと対本宗訓の言わんとすることを充分に理解できないかもしれない。掲げた本と前著は書籍における上巻と下巻の関係に相当する。

 京大哲学をでるほどの智慧者は四十歳を超えてからも帝京大医学部に入り医師になれる可能性を秘めていることを証明した。おそるべし。京大哲学科ともいえる。尤も、哲学科は、学問の成立において曾ては数学科のなかに位置づけをされていた経緯もある。

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公務員の位置-お正月には憲法を読む-

  「国のために国民がある」という思弁から「国民のために国がある」という国家的・国民的発想の転換によって公務員は国民の下僕的な存在になってしまったことは淋寂の情感を感じる。〈←姜尚中氏の言葉を一部参考〉

 公務員は、国民に奉仕する存在である点に就いては一抹の疑義を呈したい。【奉仕】とは、宗教的慣用句としての意を別としても、その本態は祈りでありそれは無償でおこなわれる営為であることから、公務員は国民への奉仕者ではなく国民とのあいだで交わされた労働契約の履行者であると理解されるべきである。会社員が会社や国民のニーズや負託に応じる義務があるという程度において公務員も同様である。

 労働は須く誠実な態度で倫理に応答して行われなくてはならない性格を保持しているため【公務員倫理】という言葉の突出は時代のニーズを背景として正義を実践してゆく姿勢の明確を示している点において、それが逆に公務員の優越性を示しているとも感じられなくもない。また、奉仕とはいえ公務員のおこなう執務は法の執行であることからそこに情感的な奉仕という崇高な理念は馴染みにくいと考えられる。

 尤も、憲法の条文において【奉仕者】という言葉は明確に使用されているが、それは【全体の奉仕者】の意として理解され【労働奉仕】の意とは解し難い。そも、【奉仕】とは無償でおこなうが故の奉仕であり、有償の奉仕など存在しない。有償の奉仕を前提とするならば、公務員の雇用賃金は限りなく低減化されなくてはならないが、絶えず、人事院勧告等で官民格差の均衡性の確保についての配慮が為されている。

 昨今の風潮において国民が過剰に公務員を敵性視する心理は、官民の賃金格差もその一員として考えられ、それは、他人の財布のなかを忖度するようなさもしくさがあり幼稚な感情的思弁として一蹴されるべき性質を帯びているが、働かない公務員は契約の不履行に該当しその弾劾は国家公務員法などの法的な根拠を擁している点において公務員という職業の特殊性が発見されるのである。

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禅機が熟したわけではない

  【新装版 図説 禅のすべて  鈴木大拙監修 木耳社刊】を読了した。初版が一九六三年の本であることから、挿絵・写真・文体が古い。しかし、それも魅力の一つになっている。茶道・禅画についての記述もあり禅をさらっとながめてとおるには好適な一冊であると思えた。初学の僕にも興味深く読むことができた。

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2009年1月 2日 (金)

何を食べても甘く感じる病気は存在するのであろうか

 とりあえず味覚異常ではある。糖尿病との因果関係に就いては謎。兎に角、負荷血糖値などの測定は不可避だな。口渇感も気になっている。

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男の子は秘密基地が大好きである

 書斎とは、男の隠れ家(そういう雑誌があったが現在は廃刊)であり秘密基地に似ている。好きな本や鉄道グッズなどに囲まれて大層の満足感に浸ることができる。この歳になっても秘密基地を造ろうとしている自分がいる。

 書架は自分の読書傾向を示しており、例えば、招き入れた人に対して自分の【知の歴程】を指し示す指標として機能するが読書は個人的な体験であることから誇示するものではない。寧ろ、自分の蒐集癖などから書架を彩る小物たちの多岐性に我ながら驚いている。やはり、僕にはパラノイア的傾向があるようだ。

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大奥は何処に存在していたのか

  一体、大奥とは如何なる場所なのだろうかと思い立ち【江戸城・大奥の秘密 安藤優一郎著 文春新書】を買い求めて読了した。大奥を含む本丸御殿の跡地は、現在、皇居東御苑の一部になっており、本丸御殿の半分以上の面積を専有していた。

 大奥と幕格との遣り取りもおもしろい。老中の松平定信と大奥との遣り取りの場合、大奥が、「これは上意である」と言うと松平は「それは将軍の使う言葉であり、大奥の話は御話であろう」と切り返して大奥が政治に容喙することを断固拒否したという。

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2009年1月 1日 (木)

JR東日本の職員のお正月

 普段、休日勤務が当然の車掌や運転士さんもお正月だけは休みたいと思うそうです。職業特性から勤態は仕方のないことなのでしょうけど・・・。鉄道が好きだけでは務まらない仕事であると、つくづくと感じます。

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健康は能動的な努力によって勝ち取らなくてはならない

 待っていたのでは健康を維持できない。努力に拠って肥満体質を超克することが喫緊の課題として認識する。最近、口渇感が気になっている。

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生きることは嬉しくも楽しいことなのである

 あけましておめでとうございます。今年は、標記のとおり「生きることは楽しい」を目標に掲げて精進してゆこうかと思っています。

 昨日に既に年末年始のご挨拶は済ませてあるので年頭の所感など特には綴りませんが、また、暦が一月に戻りました。それを一二月まで積み重ねてゆくと再び暦は一月に戻ります。例え、暦という時間の指標軸が無いとしても季節が時間の経過を知らせてくれます。 
 それこそが、絶え間ない時間の運航のうねりとも表現できるのでしょう。また、それは久遠に連続的で回帰的であり、そして波状的であり、潮の満ち引きに似ています。時間に載って季節が巡るのか、季節に乗って時間が巡るのか定かではありませんが・・・。

 のっぺりと師走も知らず今朝の春[良寛]

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