オスカー・ワイルドの孤独死
「ドリアングレイの肖像」・「サロメ」で一躍、文壇の寵児になったワイルドは男色事件を起こし懲役刑に処せられた。出所後、ワイルドは飲んだぐれて放浪の日々を送るなか、耳鳴りと頭痛に悩んだが治療を受けるお金が無かった。
「僕は身分不相応な死に方をしなくてはならないだろう」と述べて四十四歳の時、安ホテルで客死した。棺の上には花束が一つだけ載せられていた。それはホテルの亭主からのものであり「ご宿泊人様」と名宛したものであったという。
「ドリアングレイの肖像」・「サロメ」で一躍、文壇の寵児になったワイルドは男色事件を起こし懲役刑に処せられた。出所後、ワイルドは飲んだぐれて放浪の日々を送るなか、耳鳴りと頭痛に悩んだが治療を受けるお金が無かった。
「僕は身分不相応な死に方をしなくてはならないだろう」と述べて四十四歳の時、安ホテルで客死した。棺の上には花束が一つだけ載せられていた。それはホテルの亭主からのものであり「ご宿泊人様」と名宛したものであったという。
賢治の詩のなかでも「永訣の朝」は有名である。山折哲雄氏のいうとおり一連の賢治の詩は眼で読んでいたのではダメで朗読で聴くのが一番でよい。就中、長岡輝子さんの朗読は心に迫るものがある。長岡さんも賢治とおなじ岩手県出身の由。
この詩では山折は興味深い言説を展開している。賢治が綴る標準語の部分が主旋律・妹とし子が呟く岩手言葉(あめゆじゅとてちてけんじゃ)が副旋律という言葉の彩に対しての主客逆転の解釈を試みている。
主旋律をとし子のモノローグ、副旋律は賢治の紡ぎ出す言葉ではないかと問いかけているのである。なるほど、とし子の「あめゆじゅとてちてけんじゃ」という言葉の占める意味は大きく詩に一定の緊張感と安堵感、そして安定感を与えているのは確かである。
心に膜をはり静謐に静謐に時を遣り過ごそう
熱い情熱を封印し抑制に充ちた心の坐(います)を獲得しよう
醒めている思惟と冷めている感覚を尊大にも横溢させよう
熱は滅に連結しその騒音に蓋を締め施錠してこれを海に投棄しよう
寂漠たる無辺の境地を獲得しそのなかで静謐をともに生きてゆこう
子は親に育てられた後、子別れの儀式を済ませて親の元を去り同時に兄弟とも訣別する。その後、異性を伴侶として見つけ子を為して死んでゆく。多くの場合、生物はこうした生活環のなかにいる。親の元から去り、子は親の元から去ってゆく。特に人間の場合、生活環のなかで伴侶と過ごす時間が途轍もなく長い。
子がなく家庭崩壊を招来している家庭(当家が該当する)では、特に、この「つがい」の考え方を導入すると生きるのが楽になりそうだ。人間が青年期に為す多くの社会的行動、それには勿論学歴等も含まれるがそういう社会的因子は偏に異性の吸引力の確保を前提としている。よき伴侶に恵まれるために自分のステータスをあげるという考え方は生物学の原則とも背理しない。
花なら美しく香り高い匂いを放ち目立つ位置に咲くこと。動物なら妻や子にエサの確保を充分に為すこと、ヒトも同じことだ。東大を出たり、弁護士になってお金をたくさん稼ぐというのも生物学的な目標の一つの完遂ということになる。それ以外のことは生物学的には二次的な事項にしかすぎない。
人生で一番大切なのは生物学的にはよき伴侶の存在なのである。そこから、「つがい」という思想が生まれてくる。ヒトは伴侶をつがいとして認識し永く大切に時間を共有してゆかなくてはならない。親を乗り越えてゆくことが生物学的理性の有り様の一つであるとも言えるのである。
夫婦喧嘩をしたことはなかったという
寝ている妻に「おい」と声をかけようとしてやめたという
五十億人に中でただ一人「おい」と呼べるおまえだったという
おまえの寝息を聞いていると生きていることの奇怪さ・美しさ・あわれさを感じたという
妻容子が死んだ後、もう彼女はいないのかと、ときおり不思議な気分に襲われるという
容子がいなくなってしまった状態にうまく慣れることができないという
ふと容子に話しかけようとして、我に返り「そうか、もう、きみはいないのか」と、なおも容子に話かけようとする
なんだか泣けてくるような静謐さを秘めた城山のモノローグである。現実問題として城山は、妻の告別式もしない、したとしても出ない、出たとしても喪服は着ない。お墓を決めても墓参りはしない。駄々っ子のように現実の妻の死を拒絶し続けたという
城山が臨死を迎えた時、城山の口唇が動き「ママは」と問うたという
眼は朦朧とした意識のなかで宙を泳ぎ必死に容子を追い求めているようであったという
城山の死顔は、こちらが微笑みを返したくなるような純真な子供のような安らいだ笑顔だったという
ほっとしたような、嬉しそうにさえ見える、不思議な死顔だったという。ご遺族は、「おかあさんが迎えに来てくれたのだね」と。心も体も、頬を伝わった涙さえもじんわり温かかったという
参考図書-そうか、もう君はいないのか-より)
NHKニュースで屹然とニュースを伝える才気煥発の島津さんと地デジの啓発のためのプロパガンダとして美少女アニメを彷彿とさせるデジタル天使に扮して楽しそうにそれを演じる婉の島津さんのあいだにはそのパーソナリティーにおいて些かの乖離も認められないのであるがアナウンサーのタレント化には一定の抑制が必要であると思われる。
公共放送における女性アナウンサーのジェンダーを前提とする商業化には一石を投じたい。勿論、その責は安易に民放に追従し迎合するNHKの体質に帰趨するものであることは歴然とした事実である。今朝の放送でNHKが以下に示すようなサイトを運営していることを知った。島津有理子アナウンサーのデジタル天使の動画を配信する必要があるのかに就いては甚だ疑問が残るものであった。
(参考URL)
整理・整理・整理。家具の移動・移動・移動・移動で生理的にも疲労困憊する日が年内一杯は続く。否、来年に縺れ込みそうだ。移動するものは主に本。そうよ、私はB型乙女座の男。その蒐集癖は半端な量ではない。因みに妻はO型天秤座である。
【がん哲学外来の話-殺到した患者と家族が笑顔を取り戻す-樋野興夫著】に依れば、がん研究の最終目標は「天寿がん」の実現にあり、それは四十歳でがんに罹患しても八十歳まで生きられるようにがんの発生と成長を遅らせるものであると定義している。その要諦はがんとの共存であり、「がんがあっても仕方がない」と認めることを指す。
樋野に依れば、がんの治癒率は現在、五十%。 治らない五十%の人もあと二~三年早く診断が可能になれば治癒率七十%の時代が到来するという。そのために必要となるのが、「適時診断」と「的確治療」であるという。
「二人っ子」や「いもたこなんきん」の時もそうであるが、NHK大阪放送局製作の連ドラはおもしろい。一言で表現するなら辛気くさくないのが特徴なので標記の番組も楽しみにしていた。
が、ドラマのなかで舞妓などの役を演じる三倉茉奈、三倉佳奈さんが頻繁に唄う松田聖子の「赤いスイトピー」に対して僕は強烈な羞恥の想い出がある。
あの唄を聴くと大学時代の異性に係わる想い出がインテンシィブに頭をよぎる。穴が入ったら入りたくなり身をよじるほどの含羞が込み上げてくる。あの歌詞そのままのような交際を続けていたのである。
【ルポ貧困大国アメリカ 堤 未果著 岩波新書刊】という本が今年一月に上梓されて以来、気にはしていたが読む機縁に恵まれない侭に放置しておいた。
日本ジャーナリスト会議新人賞を受賞したことから一気に読んだがそこに展開されているアメリカの惨状は俄に信じられないものがあった。医療一つをとっても日本よりも遥かに状況は悪く切迫している。
僕自身のなかに内在していた経済学に対する説明できない不信感と嫌悪感がこの本に依って明確に文言化されていたように思える。経済原理の呪縛と束縛からは極力と距離を置きたいものである。
それは順天堂医院で病理学者の樋野興夫が三ヶ月間に渉って暫定的に行った試みであった。今、とりあえずその試みが終わり、その趣旨に賛同した医療者たちによって「がん哲学外来」のNPO化に向けた準備が進められているという。それを樋野は「時代の要請」と表現している。
がん哲学は何かと問えば樋野は、南原繁(元東大総長)の「政治哲学」と元癌研究所長 吉田富三の「がん学」を混淆させたものであるという。その実態を樋野は「診療でもなく、セカンドオピニオンでもなく心理カウンセリングとも違う。がん哲学とは日本のがん医療に足りないもの、気づいていないなにかを埋める隙間サイエンスででありがん医療改革のための場の設定である」と定義した。
「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」で名声を獲得したスティヴンソンは肺結核の療養中、脳溢血が原因で四十四歳で死んだ。墓碑には本人が想をえて為した詩が刻まれている。
ひろい星空のもと
墓を掘りわたしを眠らせよ
わたしは喜びのうちに生きて死ぬ
一つの言葉を残してわたしは眠る
わたしのために刻む詩はこれ
あこがれの地に彼は眠る
船人は帰る。海より我が家へ
狩人は帰る。山より我が家へ
現実に咲いている朝顔には無常観を感じる。いっそ摘んでしまおうか。晩秋にむかう季節のなかに放っておくのも哀れである。意想外、「哀れ」と「無常」は近接した概念なのかもしれない。
人生のなかで大部を労働が占拠するが、それは人生を構成する一つのエレメントである。人生における労働と非労働的部分は対称的な事象ではあるが対等視されなくてはならない。それ故、労働に全力を傾注することは非労働的な部位にも全力を挙げて臨むことになるために人生そのものが充実したものになるのである。それこそが自己実現であるという考え方も成立しうる。
標記の本を読了した。【城山三郎著 新潮社】という陣容である。美しい夫婦愛が優しいタッチで綴られており城山が妻の容子に送る最大級の讃辞であり献辞であると思えた。そこには爽やかとも形容できる結実された愛の言葉が散りばめられており、それは言葉における昇華現象とも形容できるほどの感銘をうけた。
城山は経済小説家であると思っていたので自分には無縁な話と思い定めていた。僕は自分の死よりも妻の死を一番に恐怖している。そのため、妻が亡くなっても「そうか、もう君はいないのか」という程度のダメージで恬淡としていられる城山が羨ましくもあった。
文学者である江藤 淳を蔑視して止まないのは妻に先立たれた途端に「妻と私」という遺書めいた本を残して自殺した点一つに収斂する。その気持ちは解らぬでもないが自殺を遂げたという点において江藤は人としての摂理に背理したことで指弾を受けなくてはならぬ存在であると感じている。文学者の保持する脆弱性というのもあるのだろうが、自殺は到底に容認できない。
ふたたび城山をみる。タイトルは恬淡としているものの妻の喪失感と慟哭が激しかったことは、あとがきを書いた次女の井上紀子の文に克明に記載されている。城山は戦争体験者であるから死に対して一定の免疫があるのかと思っていたがそれは勘違いも甚だしいものがあった。城山もまた江藤と同様に妻を亡くしてから衰弱してゆく。が、そこに一点の光芒を発見できるのは本文に愚痴めいた曇りがないからだ。一方、江藤のほうは鬱滅たる隠微な空気が感ぜられ滅入ること夥しかった。この本はTBSでドラマ化されるようである。特に大きな逸話もないがドラマ化に耐えうるだけの何かがあると思える本である。
【中国臓器市場】という本を読了した。センセーショナルな内容を示唆する本にあっては綴られている内容の確度を示すバロメーターの一つとして著者の経歴・参考文献の種類と本数・出版社の三つを念入りにチェックしてから買うことにしている。ガサネタを掴まされないための僕なりの自衛手段である。【副題 死体を見たら金と思え 城山秀巳著 新潮社】という陣容をとるこの本の著者は時事通信社の現役外信部記者で北京特派員の経験があること、出版社にも信をおけるものであると判断したために読み進めることとした。
曾て、中国におけるプラスティネーションの状況について重大な疑惑を感じたことを旧ブログで綴ったことがある。この本のなかでは触れられてはいないが、中国のプラスティネーションはドイツのそれとは異なり個人の善意に基づく篤志献体ではないことを確信するに至った。先ず、中国の民のなかには高等な思惟の一つとしての篤志という観念が根付いていないような気がしていたのである。農村部の貧困・困窮。都市部の拝金主義・非人道的国家において医学の発展に寄与するという篤志の観念は発生しがたいものと以前から思っていた。正に、衣食足りて礼節を知るの喩えであるがそれは措く。
この本のテーマは臓器移植である。中国は実にアメリカに次ぐ世界第二位の臓器移植大国で臓器提供者は死刑囚、その周縁にはお金にまみれた腐敗が横行していることをルポルタージュした渾身の一冊である。その辛辣とも悪辣とも形容可能で倫理に悖る臓器売買や臓器移植の実態を目の当たりにして唖然とした。
問題の根は深い。我が国の臓器移植法を併考すると日本の移植医療のあり方にも一石を投じる結果となる内容を伏在している。魑魅魍魎の如く暗躍する日本人ブローカーはしたり顔でいう。「家族が現実に腎疾患に罹患した時に綺麗事を言っていられるのか」と問う。
「アメリカでの移植は美談になるが、中国での移植は難色を示すのは差別である」とも問う。が、そんな理屈は詭弁でしかない。生命観の差異に起因するものなのかもしれないが、僕は移植には違和感をおぼえる。
移植後、帰国してからのアフターケアーをする受け入れ先病院を探すのも大変なようである。それにも増して中国での移植はリスキーである。例えば、免疫抑制剤の使用量が日本では考えられない単位なのだそうだ。
グローバルスタンダードが正しいとは思わないが中国当局でさえ死刑囚からの臓器摘出とそれに伴い金銭の遣り取りが横行していることを恥部と捉えている。美しく永遠で悠久な地、そんな中国にあって、その国家は醜く度し難い国である。ならずもの国家のお友達の所以でもある。
三連休のあいだのほとんどの時間を風邪に罹患したために横臥していた。誰それからうつされた風邪であるという認識があると心穏やかではないが致し方ない。咳エチケットなどの励行を徹底して欲しいものである。明日から出勤するつもりでいる。が、解熱・鎮痛の頓服剤であるブルフェンは肌身離せないであろう。
国鉄は腐敗していたが、一番大切な部分が腐ってなかったとJR東日本の初代社長である住田正二氏は指摘する。それは、途轍もない大きな赤字を出しても正確なダイヤだけは維持していたことだという。
労働とは普遍的な自己の価値観のなかでたえず浮動するものである。労働が一義的に大切であると思う状況も有り得るし労働以上に大切なことが出来(しゅったい)する場合もある。その場合は労働を黙殺してそちらを優先しなくてはならない。
人は労働なしでは生きられないが、労働だけでも完結しえない。家庭・教養・趣味・労働・健康がうまく廻天している時に自己実現としての完結をみることから労働には浮動性があり価値観の科目のなかで、緩急ないし優先順位における逆転現象とその相剋が絶えず発生し拮抗しているものと思えた。
そのカオスこそがおそらく自己実現感の体得なのである。そんなことから自己実現感とは曖昧な形骸をとるものの、意識下においては明確な形体をマスとして形成するものなのであろう。
過日、祝日出勤をしたので代休を頂いた。祝日の出勤調整手当の支給も受けられるが労働の対価はお金であるとは限らない。自己実現を構成する要素の一つとして労働がありその対価が賃金なのである。賃金または諸手当ありきの思想は自己実現を所与の前提とする限り順序が逆なのだ。
というわけで本日は体育の日に出勤した代替の休日とした。この三連休を利用してリフォームに伴う模様替えの準備を行う予定をしていたのだが、昨日、悪質な風邪をうつされたたので喉に激痛が走り声が潰れガマガエルのような声になってしまったので内科を受診して横臥。突発休ではなく予定していた休日なのがせめても救いであった。
石牟礼道子さんと多田富雄氏とのあいだで交わされた往復書簡集である。サブタイトルに、「いのちと魂をめぐる、渾身の往復書簡」とある。石牟礼は水俣病からの発信者、多田は免疫学者として有名である。両人とも病を得ている身でありながらこれだけの稠密な対話を成し遂げているのは注目に値する。
両人の言葉は伝統芸能である能を基軸として展開してゆく。薪能を一度は観たいと機会をうかがっているがまだ実現していない。また、能にかんして僕は希薄な知識しか持ち得ていない。しかも、新作能に就いての対話が大部を占めておりそれは新しい境地を拓くものであると価値を認めつつも理解できない箇所が随所にあった。それは、僕の勉強不足に責が求められる。石牟礼と多田の魂の鬩ぎ合いを感じる一冊であり、その絞り出される言葉の一つ一つに言霊を感得することができた。
わたしはおまえを不平豚と呼ぶ
一体、おまえを不平の豚にしたそもそもの原因はなにか。
それはだれもおまえの気に入るように
おまえに媚びてくれないということだ。
[ツァラトウストラの言葉]
これまでにたくさんの本を読んできた。標記に掲げた本は僕の読書史のなかに残り歴然と光芒を放つ一冊となった。医学・哲学が混淆されておりその比重がどちらにも傾斜していない。
僕が模索し続けてきた人の生きる意義や、生きることの意味を明快に呈示しておりなるほど得心のゆくものであった。宗教の匂いの感じられない点でも一つの境地を示し気を吐いた本であるといえる。果敢な哲学的洞察のまえに僧医 対本宗訓の色も霞んでみえた。
が、一部の文節から宗教の匂いも感じうることができるがそれは哲学的思惟の根拠となる思考の過程の一つであり著者である樋野興夫が境地に達するに至った過程における文説学的な知の遭遇としての理解が可能である。
具体的には鈴木大拙への傾倒を識しているが、大拙の難解な著書を引用した箇所がないことから、がんの哲学とは樋野が独自で形成した独特の哲学である。故に宗教とは無縁な本であると断言できる。医師は安逸に宗教学的視座から話をするのは避けた方がよい。
WH0の憲章のなかにもスピリチュアルという文言が導入されて以来、日本では霊性と訳されて医療の現場でも混乱が起きたようである。終末期医療が充実してゆく過程で霊性の問題は看過できないが、この微妙な問題に関して医師は口を噤むのが賢明な態度であるといえる。
がん哲学外来とは、セカンドオピニオンをさすものでもなく宗教でもない。人が人として生まれて来たこと、その過程でがんに罹患したこと、人がみな保持している生の意味を自然なこととしてそれを必然として寛容としている。ともするとペシミズムに陥りがちなこの僕でさえ、「生きていることは素晴らしい」と感じ「労働は喜びである」と感得し「死ぬこともよい」 と思うに至った。本書が家庭医学書のコーナーに陳列されているのは見当違いで思想哲学書のコーナーに置かれていても不思議ではない。プラグマティズム的な傾向もみてとることができた。
就中、労働者や小作農たちが学生によって象徴される特権階級出身者である私たちにどんなに強い反感を抱いているかを学んだ。-【京都学派との交渉私史】に典拠-
☆ 梅原 猛の言説には駄法螺が多いと常々感じる。
僕の人生のなかで、今後について馬を診ることはないだろう。【優駿】という映画を曾て観に行ったことがある。サブタイトルは「オラシオン-祈り」。美しい言葉であると感じた。助演は斉藤由貴さん。映画のテーマ曲の一節である標記の片言に感動をもよおした。
これからどうしたらよいのだろうか。先が見えてしまった人間にとって最後の拠りどころになる生き方は何か。あまりに当たり前のことだが、そうなれば、今を精一杯生きることしかないだろう。【山折哲雄セレクション 生きる作法Ⅰ 無常の風に吹かれて】に典拠。
沈思黙考的態度を唯一として哲学的思惟を為す時間を有することも大切である。猥雑性は否定され孤独に孤高を見出すのは精神の発揚たる人が保持する一つの営みとして理解されなくてはならない。
西欧や北欧では、労働時間を超えて労働者を残業させることは悪であると規定されているために標記に記した賃金を支払う義務が発生します。日本にはそういう思想はありません。
西欧では経営者が残業をさせることは懲罰の対象に値する罪悪なんですね。知りませんでした。
日本は義や情があってこの人のためならということで働くこともある。それはそれで日本人の持つ徳目の一つであろうと目下のところ考えています。
泥酔しながら胃から血を吐き肺腑を剔れるような心持ちを現象化して聴く。眼球をくり抜かれるような気持ちで聴く。そして限りなく堕ちてゆく感覚に軸索を感電させて死んでゆく。
僕にとっての中島みゆきは窮理な迄の生体解剖体験なのである。そして屍体は晒されて打ち棄てられる。それでよい。そういう覚悟に鉄血として身を置かなければ「中島みゆき」など聴きえないのである。
標記は宮沢賢治の詩であることは有名であるが、その一節に「ヒデリのトキはオロオロシ」という箇所がある。しかし、書きつけられた手帳の原文を見ると「ヒデリ」ではなく「ヒドリ」となっている。ところが「ヒドリ」では意がつうじないという理由から恣意的に改竄され以後、「ヒデリ」が一人歩きを始める。
昨今、この件に関して新説が出た。手帳に記載されていたとおり「ヒドリ」のほうが正しいのではないかというのがその趣旨である。岩手県には、「ヒドリ」という方言があり、小作人が日雇い仕事でもらうお金を「ヒドリ」というのだそうである。宮沢賢治は日雇いに出なければ生活できない小作人の貧しい暮らしを想い「ヒドリ」と標記したという説には信憑性を感じる。【無常の風に吹かれて 山折哲雄著】に典拠。
【副題-縄文時代から現代まで-杉立義一著 集英社新書刊】という陣容の本であり著者は京大医専あがりの開業産科医で医学博士の称号を持つ。僕自身が牛のお産を専門としていたために興味が尽きない本であった。医学部名誉教授あたりが産科史を書くのは普通であるが一開業医が著すものも珍しい。
それも京都で医を専従とした者の心映えというべきか。汲めども尽きぬ興味をそそられる本であった。なお、杉立は定めし名医であったのだろう。母子双全を理想としながらも母体での死亡者は出していない。
昨日のNHKニュースで標記の本が取り上げられて以来、紀伊国屋にも問い合わせが殺到しているとか。僕も全五巻を早速と注文した。出版社は小学館。その細密なタッチに魅了された。画家の熊田さんは九十歳をすぎたお爺さん。とても優しい目をしているのが印象的だった。早く予約しないと増刷のため相当待たされる予感を感じる本です。
中小企業の社長さんと接する機会が多い。派手で奢侈な生活の様子が垣間見られるが実情は大変なようである。大手の社長なら実務は社員に任せ自分は経営に専念するのが一般的であろうが実務から経営など一切合切を仕切らなくては稼働してゆかない会社の社長は大変な労苦が見て取れる。
欠配すれば取引停止となるので何が何で休みが取れない。それこそうつ病的状況を呈しおり会話する度に死にたいと洩らす。最近になって商売上の利害から幾度となく対立し厳しい対峙をしてきた天敵のような社長と人生における労苦と辛苦を話すようになった。精神的にも限界がきているようで再三に死にたいと洩らす。
僕は勤め人なので年次有給休暇というものがある。体調などによって一定範囲のなかでゆっくりと体を休めリフレッシュすることができるし病休も取得できる。が、彼の場合は年がら年中仕事である。旗日まで仕事をしている。日曜日が唯一の休みらしいが配達その他、企業経営のことが頭を離れないという。
「休んだほうがよい」とも安易には言えない。休めば倒産である。四面楚歌。逃げ場がないのである。病気になれば倒産である。お金は腐るほどあるのだから「最高級の温泉で一泊だけして帰ってきたらどうだ」とアドバイスをしても暇がないという。「暇は造るものだ」と諭してもそれは空疎な響きであることを僕自身も承知している。
映画、寅さんシリーズにおいてタコ社長がいつも「中小企業の社長の経営者の気持ちはわからないだろう。オレは死にたい」と言っていた。生きてゆくことは斯くも大変なものなのである。「忙殺」という言葉がある。過労死や過労自殺等の例を引くまでもなく「多忙」は人を殺す。商売人・医師などの自由業者・飲食店主、そうした個人業者が臨時休診や臨時休店にすることは先ずはみたことがない。
それを僕はスピリット・アレンジと呼称して自身のなかで大切に営みとして位置づけている。「調整」ではなく、あくまで「調製」として表現される営為のことをさす。心とは整えていくものではなく造られていくものであり可塑的に調製してゆく必要がある。
多分、「困った」という思考はないのであろうと思われる。「困った」という発想が人間の原点でありその集合体である国家にも当然、困ったという観念を持つのは自然なのであるが、それがない。困惑の思想ともいうべき思惟がないところに発展は期待できないのである。
『言魂』
著 者 石牟礼道子、多田富雄
出版社 藤原書店
書評する人 道浦母都子 (歌人)
本の内容
パーキンソン病に苦しみながら、九州・水俣で精力的に執筆を続ける作家と、脳梗塞で声を失った上、前立腺ガンに冒された世界的免疫学者。それぞれの立場で生命を見つめ続けてきた二人が、二年間にわたり交わした往復書簡集です。
病との壮絶な闘いの中で交わされた10通の手紙。魂の根源や、芸術についての思いが、切実に響く (NHK週間ブックレビューのHPから)
☆☆☆
上に掲げた本が気になっています。石牟礼道子さんがパーキンソン病に冒されていることを知り驚きました。なんといっても水俣病という公害を扱った「苦海浄土」を上梓されたかたとして有名です。当ブログの設立趣旨からも読書予定に指定しておくべき本であると思われました。
司馬遼太郎は山折哲雄氏との対談のなかで「宗教とは人間を飼い慣らすための装置である」と述べた。人間は放たっらかしにされるとき、必ずや野生化し獣性をむき出すという認識がその背後にあると山折氏はその言説を分析して共感を示している。宗教は一つの精神的な収容装置としても機能していたのであろうか。
閑話休題
司馬は、浄瑠璃を町人が男を磨く鏡であるとも述べている。
ニーチェは、「この人を見よ」のなかで、自分はルサンチマンを自分にとって価値のないものと自分自身に禁じ清算したと述べブッダを魂の怨念感情から解放する「魂の衛生学者」と評価している。仏教とは、ルサンチマンからの解脱だったのだ。【座右のニーチェ-突破力の身につく本- 齋藤 孝著 光文社新書】に典拠。
☆ 仏教に関する言説は僕の見解とは異なります。
一般には、看護師の資格取得後に保健師になる。彼女は、保健師として保健所勤務を経て看護師に舞い戻った。その理由を「臨床経験がなく何の手技もできないのが情けないから」と述べた。今、彼女は聖路加病院訪問看護科にいる。【聖路加病院訪問看護科11人のナースたち 上原善広 著】に典拠。
将校が挫けていては仕事の志気にかかわる。そうだ、現場では将校的な振る舞いをしなくてはならない立場にいるのだ。将校同志のなかで位階は低いが軍刀を振り上げ猪突猛進しなくてはならない立場にいたのだ。当職では任官した段階で即、少尉なのである。新規採用職員が少尉であるとすれば僕は中尉の侭ということになる。中尉として全力を尽くすことに僕の職業的使命がある。導くのは兵・下士官ともいえる現場作業職員の者たちなのだ。しかし、最低、大尉にならなくてはその辣腕を発揮しえないのも事実なのである。
「仁」の魂を喪失すると武士道は画竜点睛を欠くことになる。弱者への憐憫・劣者への同情・敗者への慈愛を抜きにしては武士道は完成しない。(新渡戸稲造)。
尤も、ひろさちやさんに言わせれば武士道など虚仮なのだそうです。
生きることと死ぬことがほとんど重なってみえるということだ。見方を転ずれば、生と死が平等の権利を主張し始めていることになるだろう。【山折哲雄セレクション 生きる作法Ⅰ 無常の風に吹かれて】に典拠。
カントは、「科学における進歩は、その中に数学的内容と方法を含む程度に依って決定される」と喝破した。
一方で、イギリスでは上流階級の人たちは数学など教わらなかった。イートン校のようなエリート養成学校でさえ十八世紀の終わりまで算術の先生などいなかった。
ケンブリッジ大学を卒業した海軍大臣サミュエル・ピーブスは、ロイヤル・チャールズ号の航海士から九九を学んでいる。神によって労働の必要から開放された人々に求められたのは紳士的教養を身につけることだった。
なお、九九は中国で発明されて奈良時代に日本に渡来した。算木というものが東大寺の二月堂に残っている。【数学を愛した作家たち 片野善一郎著】に典拠。
☆☆☆☆
数学科は絶対に行きたくありません。否、いけない学科です。
「感激死」なんていう言葉は存在しない。僕が今、直感的に造った。それほどまでに植村という男はよい奴であった。 彼の仲間は「自分の手足を食べてでも生き抜く男」であると評した。
が当人は至って謙虚で、「僕はたいそうなことはなにもしていません。普通の社会人としてやってゆく自信がないからこんなことをしているんです。本当は怖くて怖くて、寒くて寒くて」と謙遜をみせている。
また、本音の部分も少しだけのぞかせ「将来を思うと、わびしい、さびしい」とも述べ、さらに「若い頃は、山で女房の顔が浮かぶようじゃいけないと法螺を吹いていましたが、今は帰るところは女房のところしかない。自分は一人じゃない。絶対に帰ります」と照れてみせたこともある。
植村の妻は述べた「わたしは、どんな旅にも全部反対しました。けれど返事は、おれにはこれしかない、でした。反対しても行く人でした。子供がいたら山は絶対にやらせないと言ってました」。
八十三歳になる老父は天を仰いで述べた。「倅は、お国にも御近所にも、何の役にも立たないことをしてこんなに心配していただいて申し訳ない」。植村直己さんもそうだが取り巻く人たちにも人間的な懐の深さをおぼえる。史上初のマッキンリー冬期単独登頂に成功したという報告を残して彼は山の彼方へと逝ってしまった。享年四十三歳。
★ 死とはなにかを残していくことであるように思えるのである。
その日は秋たけなわで金木犀が匂い立つ日であった。相変わらず僕は忙しく立ち働いていた。-秋-。まさに万感の秋。僕はただ金木犀の香りにうっとりとするだけの秋。緒形拳が死のうがノーベル賞を誰が受賞しようが関係ない秋。今年の金木犀は開花が遅かった。
貧乏人がいました。彼は金持ちを軽蔑していました。金持ちは金を貯めるだけでちっとも使わない。死んであの世に金を持って行けるはずもありません。自分がもし金持ちになったらガンガンとお金を使おうと決意しました。
そこに悪魔が現れて不思議な財布を貧乏人に与えました。その財布からは金貨を引き出すことができます。一枚引き出すと次の一枚が財布のなかにあるという具合です。しかし、その財布を川に捨てる迄は一枚の金貨も自由には使えないというのが条件です。
貧乏人は、明日になったら財布は捨てるつもりで、ひたすら金貨を財布のなかなら引き出す作業を続けました。明日になりましたが財布は捨てられません。明後日になっても財布は捨てられません。仕事をしないで金貨を取り出し続けたため食べるパンも無くなりました。しかし、ひたすら金貨を取り出し続けました。そして貧乏人はそのまま死んでしまいました。
「貧乏人は幸いである」とルカによる福音書には書いてあります。仏教のほうでは「小欲知足」という考え方を教えています。この小欲知足の智慧が貧乏人にあったら悪魔がくれた財布も幸福の財布になっていたかもしれません。【憐れな金持ち-クルイロフの寓話-】
「ザ・アトラス・オブ・メディケーション」というサブタイトルとおり図版がとても美しく雑誌「ニュートン」を意識して造本されたことがうかがわれるアトラス本です。4000円とやや高価ですが高校程度の生物学の知識があれば充分に読み解ける一冊です。類書として同シリーズから「からだの地図帳」・「病気の地図帳」・「脳の地図帳」などの本が出版されているようで講談社から刊行されています。
民事での案件を公開裁判に附す理由がなんとも解せない。要は当事者間のあいだの問題であり極めてプライベートなデリケートな問題である。それは紛れもなく事件ではなく事案である。 勿論、検察官だって関与しない。裁判所で偶然にも傍聴した民事裁判は男女間の縺れの係争であった。「初めて肉体関係を持ったのはいつなのですか」という誰何は裁判上の必要から訊く法曹人の知慮する問題であり第三者には無関係であるばかりか窮極の個人情報である。
他人様の秘め事まで聴く趣味を他人様である僕が聴く理由はないので帰って来た。 一つの事案について複数の法律が束縛することはありえないうえに個人情報保護法と裁判の公開の原則はまったく別の次元での話ではある。また、「秘密の保護」と「個人情報」は異なる。が、憤然たる違和感は残った。その痴話の原因等の縺れにかかわる事案が開示されなければならない理由が見当たらない。
過日、裁判を傍聴してきたと書いた。それは刑事事件のほうであると御了知願いたい。その事件も亦、男と女の性的な事件。つまり強制猥褻累犯者の人定質問だった。特段、好んで性犯罪の裁判を傍聴しにいったわけではなく行ってみたら当該事犯であったことを附記させて戴く。日本ほど猥褻とかポルノに放埒な国はないと思うしまた、それなりの需要もあるのであろう。が、それはあくまでバーチャルな世界での話だろうし現実と混同し惑溺する者が存在しうることが信じえなかった。
ところで、被告人に判決を申し渡した後、裁判官に依る説諭がおこなわれることがある。某月某日、某裁判官が、強制猥褻犯に次のように告げたという。「今度、女性をみてムラムラしたら拳を握り我慢しなさい」。【裁判官の人情お言葉集 長嶺超輝著 幻冬舎刊】のなかにそういう一節が紹介されていてこれにも唖然とした。
【国防婦人会 藤井忠俊著 -日の丸とカッポウ着- 岩波新書(アンコール復刊本)】
を読了した。銃後という空間は確かに民俗学的思惟が介入する余地がある。それは極めて限定的な地域と短期間という属性を保持しながらもやはり民俗学的である。が、著者は民俗学的な視座とは別に社会学的視点を要求している。
それはともかくとしてもおもしろい本であった。【現代民話考 松谷みよ子編-軍隊篇】という本も既に古典の部類に入るがこれも好著の一つである。軍隊・銃後のことは民俗学的な観察にも揚々と耐えうるものであると理解している。
【ゾロアスター教 青木 健著 講談社選書メチエ】を一日で読了した。たった一日で読了したというのは言葉のレトリックであり、飛ばし読みをした所以に依る。この本はゾロアスター教の歴史的変遷を主眼においているためその教義の部分が手薄になっているように思えた。加えて、たくさんの神様が出てくるため、著者も懇切丁寧にその神格について言及をしているが、その部分について必要なことではあり乍らも冗漫なのである。
同じ講談社メチエから出ている「ヒンズー教」を読んだ時も大部を神様の紹介に充てられているために辟易した記憶がある。一つの宗教に触れようとする時、神格の多様性が大きなネックになる。そんな意味で絶対唯一である存在者を指定するキリスト教などはアプローチとしては容易といえる。別段、ゾロアスター教の構成においてどの神様がどういう性格でどういう正格であるかに就いては当面の興味はない。
例えば、ゾロアスター教は、「犬は正しい動物でカエルは悪い動物である」という規定があるが、そんな民俗学に根ざした言説が興味深い。このことについては著者自身も不可解と述べるに留めている。
ゾロアスター教はザラスシュトラ・スピターマという人物が軸となって宗教的転回を為してゆく。それがニーチェのツァラトウストラに承継された後、ヒットラーが好むところとなる。アーリア民族とゾロアスター教は緊密であり、また、ヒットラーを読み解く原点もアーリアにある。そのため標記のタイトルとさせて戴いたわけである。
僕は経済学が苦手である。お金にも恬淡としていたい。そんな意味から経済小説はほとんど読まない。が、昨日から今日にかけてのラジオ深夜便に出演しておられた幸田真音(コウダマイン)さんの話を聴いて経済を苦手にしている場合ではないぞと痛感した。
幸田さんは経済を取り巻く各界で活躍した経験をもち政府の財務・金融各種委員も務められている由。そんな彼女が現在を世界同時大恐慌の前夜的状況であると述べているのを聴いて戦慄をおぼえた。
幸田さんの結実した小説の一つ一つは現在の経済の動向に関して、いちいちきちんと正鵠を射ているのだそうで特段に好評であるという。作品数にして総数二十六本。そのうちの何冊でもよいから読んでおくべきかなとも思った。また、がんの罹患体験もあり命に対しても視線がぶれていなかった。
今週は三冊の本を読了したので逐次紹介してゆく。その中の一つが【日本共産党 筆坂秀世 新潮新書】という本である。初版が2006年であり決して古い本ではない。僕は政治的状況にも疎い。著者の筆坂という人物のことは知らなかったが、共産党ではナンバー4の立場におり国会議員の経歴があるそうだ。が、失脚させられたためにその報復的な動機から執筆された本という構造が見て取れる、いわゆる暴露本の一つであり内容の真偽は不明である。
が、暴露本と簡単には片づけることの出来ない内容を含んでいた。僕は不破哲三氏や志位和夫という人たちの弁舌と人柄に好感を抱いていた。が、この本を読む限りにおいて古今東西、時代とは無関係に共産党は怖いという想念の再確認を迫られた。現在でも「細胞」とか「前衛」とか「自己批判」、「代々木」という言葉が罷り通っていることに先ず驚いた。勿論、筆坂が示してみせたこの本の内容が事実であればの話である。文節を引用して感想を述べたい部分もある。
しかし、それは当ブログでは避けることとした。話は高度に政治的であり特定の政党に対してブログとして参与することは一般的に馴染まないと思う所以からである。別にも理由があるがそれは書かないでおく。青年時代において人はやや左傾化する傾向がある。
当ブログでも再三、俎上の載せている高野悦子・奥 浩平・樺 美知子。その著書などを通じて左翼的思想に大変共鳴した時期が僕にもあった。が、それは、所詮、青年期の感傷ともいうべき類のもであったと回想することができる。今は、一つの政党が突出しないように時に自民、時に共産というような投票行動を為しいわゆるノンポリである。なお、体系的で研究書的な色彩が感じられる一般書では、立花 隆の「日本共産党の研究」という本があることを紹介しておく。
父母・妹が本日、家を出ることになった。別居は主治医の指導の一つでもある。これを一つのステップとして家族の絆を恢復すべく全力を挙げる。今、緊蹶の課題は、宮沢賢治とその妹トシの関係を徹底的に研究することだ。母はいつまでも慈愛に満ち妹は限りなく愛おしい。別居期間中、父の使用していた書斎を廃止にするためにリフォーム第二期工事を行う。
〈ごく自然に勝者になるのなら、勝者になればよいのです。勝者になることが人生唯一の目的でありそのために粉骨砕身頑張る。そんな生き方はしないで下さい。まじめにやって、世間の勝者になっても大したことはありません。そりゃね、財産が何兆円もの金持ちになるのであれば話は別ですよ。でも、そんなことはありえません。高が知れています。
あなたがなにも努力せず、いや、少しだけ努力してそれでラッキーな勝ち組になるのはよいですよ。強いて負け組になろうと努力する必要はありません。その点で二世紀のローマ皇帝マルクス・アウレリアスが「与えられて手許にあれば自然な態度でそれを用い、無ければそれを用いない」と言っていますが、そのような自然な態度がよいですね。
我々は、勝ち組に入ろうとすると世間の物差しを身につけてしまいますね。お金があるのがよいことだと信じているから、自分にお金がないと悲しくなる。優等生がよい子と信じているから、心が優しくても我が子が悪い子になってしまう。窓際族に追い込まれたら、折角、のんびりできるポストを与えられたのに絶望に陥ったりします。宗教学者のひろさちやさんがフランス人に窓際族の話をしたところ、「きっと、そのかたは会社に大きな貢献をしたのでそのような恵まれたポストを与えられたのですね」と言ったそうです。
勝ち組、負け組という観念に縛られているから、窓際族にされて苦しむのです。そんな世間の物差しを笑い飛ばせば、窓際族になっても優雅に暮らせますよ。[中略]だから、精神的にだけでも「脱出」してください。世間を馬鹿にしてください。自由というのは奴隷の反対です。わたしたちは世間の奴隷になってはいけません。世間の奴隷は、世間の物差しでしかみのをみられないのです。奴隷は真の人間ではありません。だから人間らしい生き方ではありません。〉-【世間も他人も気にしない ひろさちや著 文春新書】に典拠-
☆☆☆☆☆
ひろさちやさんの思想は相変わらず激烈ですが、一部において正鵠を射た求心力もあります。マルクス・アウレリアスに就いては、岩波文庫から出版されており高校生の頃に通読し「なるほど」と感じたことが想い出されます。彼の思想は簡潔明瞭で至言に満ちています。そういえば、岸本葉子さんもなにかの本でマルクス・アウレリアスのことを書いておられました。
でも、勝負はこれからです。諦めてはいません。
標記のことを阿川は「儒教」にあると説いています。僕も曾て警察官の思惟の基礎は儒教にあるのではないかと感じたことがあります。なるほど僕の直感も満更ではなかったようです。
孔子はよいことを言っています。「未ダ生ヲ知ラズ、焉ンゾ死ヲ知ルランヤ」それは措くとしても山本夏彦氏も道徳の典範として儒教を高く評価していたようです。
旧幕時代に木村摂津守が遣米使節として渡米した際、紳士として礼を受けました。これも木村の儒教的振る舞いの結果であると阿川は推論しています。因みにイギリスでいう紳士とは走らないことだそうです。バスに乗り遅れそうになっても走らない。悠然と次のバスに乗ってゆく。そう、武士も走らなかった。武士が走るのは主君の大事の時に限られていました。
孔子も「過ギタルハ及バザルガ如シ」と述べていますか、田沼意次が失脚して松平定信が老中になった時、「白川の清き流れに魚住まず もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌がよまれたりします。人はそういうものなのでしょうか。
朱子学では理気の学問とも呼ばれ、厳正に理論だけでやってゆくものだから、理詰めで人を責める。なかなかにエグい学問です。人間なんてそんなものではないと阿川は説きます。僕もそう思います。
さて「大人の見識 阿川弘之著」も最終章に入ります。ここで阿川はベートーヴェンを交響楽章の終わり方を例にひきます。「もうすぐ終わる。いよいよ終わる。さぁ終わるぞ、ほんとうに終わる。終わった。ついに終わった。」という言葉を例にひきながらも未だ阿川の言説は続きます。しかし、この本を読んで学んだことの文書化による復習はここまでとします。
それにしても、阿川さんも老いたなとも感じました。最後に【温】という文字の篆書が本の最後を飾っています。阿川は「瞬間湯沸器」と呼ばれるほどに短気な人間であり、【温】などという言葉は凡そ似合わない。
阿川さんの精神形成の本質的な部分で多分に海軍の影響を受けたことは論を待たないと思います。海軍は典雅なイギリス式の軍制を採り入れました。将校が朝食を採る時には、横で兵にバイオリンの演奏などをさせる慣習がありました。とまれ、この「大人の見識」という本は必ずしも大人の見識を開陳したものではなくイギリス的なユーモアーを持とうというのが阿川さんが提唱したその趣意でした。阿川さん-海軍-イギリスという構造が端的にみえる一冊でした。
鯉を鍋に入れて火をかけます。鍋はジワジワと熱くなり、鯉は遂に茹で上がります。が、熱湯に鯉を入れると鯉は驚いて鍋から踊り出ます。激越な変化に対して生物は正しい回避行動を取りますが、連続的な変化には馴化されてしまいます。-【世間も他人も気にしない ひろさちや著 文春新書】に典拠-
☆☆☆
消費税にしても然り、日々の企業の営みも然り。感覚を研ぎ澄まして状況が悪くなってゆく一方の現代という時代に対して正しい判断力を持ちたいものです。茹で上がるまえに僕たちは逃走しなければなりません。
なお、喩えとしての鯉の例示はひろさちやさんのオリジナルのようですがカエルでの言説は広く流布されており現実に生物学的反応としてそういうことが起こりうるそうです。
高松宮さんは皇室から戦死者が出ていないことをたいへん危惧していました。敗戦後、国民怨嗟の声が皇室に向けられることをおそれ、「天皇の弟宮でさえ敵陣突入して戦死している」という既成事実を造りたかったと述べています。
軍艦「比叡」にも乗艦されましたが、危ないからダメという理由で何もさせてもらえず、「私は比叡の油虫」という戯曲を造ったそうです。
そんななか、海軍大尉侯爵音羽正彦さんが戦死しました。高松宮さんは弔問に行き、「初めて皇族から戦死者が出た。ご遺族には気の毒だが、国民に対してはこれで面目が立つ。その意味では結構なことだ」と言ったそうです。-【大人の見識 阿川弘之著】- に典拠。
ノブレス・オブリージュというフランス語は、「高貴な者の義務」と訳される言葉で、高貴な者・即ち、社会的地位の高い者は、それだけ義務が大きいという意味なのだそうです。例えば、フォークランド紛争の時には、イギリスのアンドリュー王子が真っ先に軍艦に乗り込んで戦地に赴き戦死するところであったそうです。
当ブログでは意図的してアクセス地域ランキングを表示するように設定してあります。が、画面の右下に表示されている検索フレーズランキングは恣意に依るものではあません。ココログ側からの一方的なサービスであると理解しています。
ブログの一管理人としての疑問なのですが、なにを基準にしてランキングを算定しているのかまったく以て不可解なのです。おそらく、前日分の検索フレーズを基準にしているようなのですが一度だけ検索された語彙がランクインしている場合もあります。まっ、僕自身もこのランキングを楽しんでいることもあり別段邪魔でもないのでこの侭にしておきます。
使命感を持つ人である。それは、自分が生きていることに対する責任感であり、人生において他ならぬ自分が果たすべき役割があるのだという自覚である。【生きがいについて 神谷美恵子著】に典拠。
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