2009年7月11日 (土)

明海大学歯学部附属病院で歯科治療を受けた

【7月1日(水曜曜日)第1病日目】。上顎の歯茎に疼痛を感じたため口内炎の病識を得た。

【7月2日(木曜日)第2病日目】。口内炎に伴う腫脹感を強く感じる。

【7月3日(金曜日)第3病日目】。上顎洞付近の頬部が腫大。当日は、暑気払幹事を務めていため歯科の受診ができなかった。帰途、別職員にクルマにて家まで送ってもらう。自宅到着後、右頬部限局性の炎症と腫大を確認しその炎症が瀰漫性であることからフレグモーネと診定した。

【7月4日(土曜日)第4病日目】。重篤な炎症のために顔面が歪み左右の対称性を逸失し口腔内口唇粘膜が露出しドライマウス状態になる。そのため、歯科を受診。経口に依る抗生物質の投与では治癒は望めないため、医科での抗生物質の点滴を受ける。

【7月5日(日曜日)第5病日目】。腫れは退褪せず、さらに重篤性を増し、眼瞼および眉間にまで波及し眼が半分、潰れた状態に至る。再度、医科にて同治療に加え歯茎を切開し排膿した。これによって相当程度の嫌気性菌が死滅するというのだが何故、嫌気性菌に感染したかは不明である。同日、歯科も受診し入院勧告を受ける。指定先の病院は明海大学歯学部附属病院。せめて日大歯学部病院程度にならぬかと懇願したところ、主治医の母校であること、急性期の治療においてベッドの確保が困難であることを理由に強く明海大を奨められる。また、歯科には歯科大の病院が適当であるとした説明を受け、これに不承乍ら納得し紹介状を書いてもらう。

【7月6日(日曜日)第5病日目】。明海大歯学部附属病院へゆく。最寄り駅からタクシーで病院へ向かおうとしたところタクシー・プールもない所なので、城西大学の学生たちに混じって山道を徒歩にて病院に向かう。明海大学は、城西歯科大学が単科大として存立が怪しくなったため明海大学として独立した経緯があり不動産学部等も設置している。

 この病院に対するファースト・インプレッション等には惻隠の情を以て触れないことにする。診療の状況に就いては記しておく。準教授程度の歯科医が出て来て、頬部等の顔面を触診しないまま、「眼下膿瘍」という診断名を賦与された。もちろん、「眼窩膿瘍」なら視神経にまで波及する大変な状態である。で、眼下膿瘍。顔面右側において眉間から、下顎部に炎症が拡大しているのに、眼下膿瘍とは解せない診断名であった。状況は、組織間隙を瀰漫性に浸潤する、寧ろ、フレグモーネなのである。

 歯科医になって3年目という若いドクターと交替し、点滴下抗生物質治療を開始。ところが、血管の確保ができないのである。ブツと針を血管に刺入しても必ず外す。もちろん、大学病院なので明海大学に限らず、経験値の差からこうした事態は容認できる。しかし、アル綿で、採血部(CRPを診るため)  を清拭しないで採血とは一体、どういう教育をしているのだろうと頭を傾げざるをえなかった。もちろん、抗議した。また、当該血管を潰すと、そこに絆創膏を無言で貼り、別の血管に採血針を刺入する。僕は言った。「キミ、この血管、どうしたんだ、ちゃんと説明しなさい」。曰く。「すみません。採血できません」。「それなら一言断っておくのが患者に対する礼儀でしょ」と叱る。アル綿なんて歯科のユニットに常備してあるのが普通ぢゃないのか。あちこちのユニットで歯科医たちがアル綿を持ってきてと看護師(口腔外科では歯科衛生士が歯科医介助をおこなわず、看護師がおこなう由)に指示を出している。

 横のユニットをみると、大きなペンチのようなもので女性歯科医が不器用そうに抜歯をおこなっている。大学病院の属性とはいえ患者が不憫である。また、今年度、卒業したばかりと思われる歯科医たちが治療室内に突っ立て所在なさげにしている。この診療室のポリシーも理解に苦しんだ。部屋から部屋に抜ける壁が三角形にくりぬいてあるのだ。動線が適切ではなく、万一、ストレッチャー等を使用する時には、取り回しが悪いだろうなと感じた。もちろん、ユニバーサル・デザインの発想など皆無である。口腔外科では、下顎の腫大等で気管を圧迫した場合、歯科医が気管切開し気道確保をおこなうらしい。これにも驚いた。歯科大学附属病院には、医科の外科を設置していない。耳鼻咽喉科・眼科・内科・精々、脳外科程度で、それは、細菌が眼や鼻、脳に及んだ場合を想定しているからであり、それなりにただしい。しかし、外科の診療科は想定していないのだ。入院という話も出た。しかし、これは一蹴。

 結局、抗菌スペクトルの問題だけで医科で点滴をしたほうがナンボかよい。X線検査・MRIの検査も固辞。抗生物質の点滴だけをしてもらい辞去してきた。歯科とはいえ大学病院である。売店もない、食堂もない。しかも、明海大学歯学部に限って言えばホームページも充分ではない。また、舌がん等にも口腔外科からアプローチするのみで腫瘍医や、放射線照射施設のない病院で口腔部・頭頸部付近の治療が満足にできうるものなのかと甚だ心許ない気持ちを抱いて明海大学を辞去してきた。定めし、この病院にかかったために、助かる命を、あたら、散らした人も多いのだろうなと思いつつ。また、僕個人的には、この病院では僕が殺されるとも感じた。さらば、明海大学。

 そういえば、自治医科大学において慢性副鼻腔炎の手術をするにあたって、ブリッジが取れたしまった際、再装着をお願いして、結果、重篤には至らぬまでも、フレグモーネを起こす原因を造ったのも明海卒の歯科医であった。

 明海大学にはまったく私怨はない。僕が体験し感じたことを素直に書いてみた。この文章を誹謗中傷と受け止めるのではなく患者の客観的意見として関係者には捉えてもらいたい。また、歯科も医科のなかに包括されるような医療機関で受診すべきであると強く感じた。大抵の病院や大学病院には口腔外科がある。今後、僕は、歯科大附属病院には行かない。どうしても行く必要があれば、医と歯が連携している東京医科歯科大や昭和大学などが適当だろうと思う。要するに医科の監督の下に高度な歯科医療を実践している病院を選択する。また、現今において、患者のアメニティの問題も看過できない。私学なら尚更である。

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蒸気機関車なら9600型

 それは蒸気機関車の王道を正しく歩んできたのである。

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指名手配犯の存在証明

 駅や街頭に指名手配犯人の手配書が掲示してある。もう、何年も逃走しているであろうキク○○子などの写真を見る度に、生きていることを所与の前提として捜査している警察の不可解を感じる。

 彼女が生存しているという確信のような、また、そのエビデンスがあるのだろうか。或いは、死体を捜索しているのであろうか。が、死体の捜索を前提とする限り指名手配という字句は馴染まない。

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問題の建て方が違うのだ

 現状の職域に留まるなら昇任は見送り。異動すれば昇任。どちらを選択するかという問いは問題の建て方というか問いが問いとして問いの呈をなしていないように感じられるのだ。僕は現今の職域において最大限の企業内貢献をしているつもりなのだ。僕が他の職域にゆくことで発生する会社のメリットは少ないと思われるのだが・・・。人事とは不思議なものだ。

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アメリカの文学における過去・現在・未来

 【ハックルベリー・フィンのアメリカ 「自由」はどこにあるのか 亀井俊介著 中公新書刊】を読んだ。アメリカ文学が呈示した最大の作品は「風とともに去りぬ」であろうと僕は確信している。もちろん、ヘミングウェイの存在も大きい。

 偏見を承知のうえで書くが、どうも、アメリカと文学は、僕の頭のなかで巧く繋がらないのだ。個人的に・・・。そして、アメリカには人文科学は馴染みにくいような気がするのだ。専ら、経済原理優先の国にあって文学的風土が醸成しにくい環境があるのではなかろうかと推論してみた。よい意味でヤンキーには文学は馴染みにくいのかも知れないのだ。

 寧ろ、ハリウッドに代表される安逸な映画の方がシックリとアメリカ人の一般的嗜好の問題としては理解できる。アメリカ人はヒーローが好きである。日本における一般的文学の様態、または、指向としてヒーローに期待する部分は些少である。

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2009年7月10日 (金)

薬剤師もチーム医療を担う大切な構成要員である

  【毒と薬の世界史 ソクラテス・錬金術・ドーピング 船山信次著 中公新書】を読んだ。この手の本は、既に多くの類書が出版されているが、大概が興味深くおもしろい。

 著者は薬剤師である。薬剤師が上梓する書籍の多くは、医師に比肩する存在者たるべくドンキホーテ的情熱を絶えず読者に訴えかけてくる。薬剤師は薬剤師。医師とその社会的地位を争っても栓のなきことであり、なおかつ、薬剤師が医師よりも薬のことを知っているのは薬学部を卒業しているのだから当たり前の理路である。

 医師がメディカルの第一進者であるとすれば、薬剤師は、どう頑張っても、コ・メディカルの一翼者であるという力動関係は変わらない。どんな藪医者でも医師は医師。優秀な薬剤師が切歯扼腕しても権限において薬剤師のそれは限定的であることは法の定めなので仕方がない。

 医師との比較のなかで薬剤師が独自のナラティブを紡ぐのは、もう、止めたほうがよい。なによりチーム医療が謳われている昨今、薬剤師も協働ということを学んで欲しいと常々、思うのである。薬剤師は薬剤師で、それは優秀であり、重要な仕事であることは所与の事実として誰もが充分に認知している。医師・薬剤師・ナースなど、どれが欠格してもチーム医療は成立しない。上掲した本を読んでそんなことを感じた。

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衛生と海軍将校

 帝国海軍の将兵において多発した疾病は水虫などの白癬菌症である。もちろん、海軍の揺籃期においては壊血病対策は喫緊の課題であった。

 それにしても潮風に長いあいださらされていると体躯がベトベトしてきてシャワーの一つも浴びたくなる。ところが、真水は艦艇において血の一滴にも相当する液体の一つであった。海軍は華々しい。しかし、体躯は不潔にして当人もキモチ悪かったのに違いないのだ。

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2009年7月 9日 (木)

船の舷灯

 美しいものだな。幻惑を惹起される。

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組織的同一性

○ 僕は慶應大学医学部の準教授ではない。

○ あなたも慶應大学医学部の準教授ではない。

○ あなたも僕も慶應大学医学部とは無縁な存在であることにおいて共通している。

○ 所詮、零細なる民間企業の使い走り。

○ 人事課であれ総務課であれ畏れるには当たらない。

○  僕らは獣医師免許を保持しているという文脈において事務系職員とは劃然と差別

   化が行われる。事務系職員は、その組織的帰属感の他に誇れるものがあります

   か?

○ 単に会社のネームバリューと配置位置 としての人事課。申し訳ないが、その程度の

  価値観を僕は笑い飛ばすのである。             

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マスコンという電車運転装置

 鉄道グッズとしてマスコンが欲しいと何気に呟いたところ、妻に、「マスコンは置き場に困るでしょ」と言われた。妻はマスコンのことを知っているのだ。夫婦も寄り添い続けるとこういう状態が発生する。

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日本語は肩凝りという現象を選れて能く表現することができる-日本語がもつ豊饒の海-

 肩凝りを表現する英語は存在しないので、欧米人は、その状態を「肩が痛い」と呼ぶ。日本人が感じる肩凝りの様態、つまり、肩の痛み・こわばり・重さの混在した状態を形容する言葉を一括して「肩がこる」という状態であると欧米人に教えると一様に納得するそうなのだ。【心も体も「冷え」は万病のもと 川嶋 朗 集英社新書】を参考。

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きょう、労苦を享けておくこと

 明日のことは明日が心配します。労苦は、その日その日に、充分あります。(マザー・テレサ)

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現象の発見学としての病理学的方法

 病理学とは、畢竟、病というフェノメノンの存在の在の確認。つまり、ザインに耳を澄ますことにある。ザインの発見能力が病理学の初歩的な構成の要素の一つになってくる。もちろん、病の理路を整然とただしく呈出することがその大要であるが、現実的にはザインの否定、または肯定という診査のためにその意を強く傾注する作業であるようにも思えるのだ。

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2009年7月 8日 (水)

宇宙戦艦ヤマトにサザエさん一家が乗艦した状況を想定する

 ○ くだらない喩えだが発想の跳躍とはそいうことを考えてみることなのだ。別次元と別次元の衝突にこそ思想において跳躍の発生が起きるのである。如何なる状況であれ僕は窮理でありたいのだ。

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アルムの樅の木よ

 心地よく響く言葉である。

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太陽が眩しい

 それが夏のエビデンスである。

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これまでそういうモノは絶対に忘失したことはなかった

 定期券・カード・サイフ・カギ・カバン等々の身の廻りの品をなくしたことがこれまでなかった。過日、クルマのセルフ給油をおこなった際、クレジット・カードを忘失した。不正使用されることがなかったのが幸いであった。

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歯は病気になるのか

 歯牙そのものがもつ非有機的な属性から歯という単体は疾病を発現することはありえないように思えるのである。

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ドライ・アイの常識

 防腐剤入りの目薬は百害あって一利なしということ。

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2009年7月 6日 (月)

フレグモーネ

 ○ 当分のあいだ治療に専念することにします。

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2009年7月 3日 (金)

矯正行政と懲罰行政としての死刑

 その法理学的関係がクリアに見えてこないのである。

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非観血的な治療のみをおこなう脳外科クリニックが存在していた

 開頭手術をしない脳外科クリニックが存在することを知って驚いたが、もちろん、そういう医療ニーズを必要とする人もいるだろう。病診連携・診診連携という形も指摘されれば確かに存在していてもおかしくはない。

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松本清張は芥川龍之介に対して批判的である

 ○ 生活感のない芥川の如きようなものは文学ではない。労働の体験こそ文学を構築する根幹をなす・・・みたいなことを松本は述べている。それは高等遊民の否定でもある。さて、文学は労働者のモノか、高等遊民のモノか・・・。僕は人間のモノであると信じているのだが・・・。文学は状況において発生するのである。

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2009年7月 2日 (木)

梯 久美子さんと読み解く激戦地硫黄島の指揮官栗林忠道中将

  【散るぞ悲しき 梯 久美子著 硫黄島総指揮官 栗林忠道 新潮社】を読んだ。栗林中将に就いての、よくできた評伝であり感服した。戦記文学として深く記念したい。

 作品を読むということは、作者とともに伴奏、或いは、伴走してゆくことであり、よい作品ほどその傾向は、猶更に強い。とまれ、女性が書いた戦記としては卓抜の感がある。

 梯さんの評伝観、要するに、評伝にも文学性が宿り、そこに小説性も胚胎することに賛意をおぼえたのだ。また、評伝と年譜は異なるが、年譜を無視して評伝は成り立たないのは当然のことわりである。

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自らの意志で死を決断した人は死なせてあげること-死の複数回性の否定として-

自殺を企図して、これを失敗し瀕死の状態にある者に対しては救命・蘇生措置を施さないほうがよい。自殺者は人生において二度も死を覚悟しなくてはならなくなる羽目になる。一命を取り留めたところで状況において大きな変化もあるまい。

 曰く不憫。自殺を遂げて死にきれないでいる者には、トドメを刺すことを、古来、武士の情とも表現してきた。会津藩において西郷頼母の妻子が自刃を図った時に武士の情けとして止めを刺したのは薩摩武士であり、その、もののふは涕泣したという。しかし、その妻子は、当時の状況に照らすと死ななくてはならなかった。それが事情というものである。

 しかし、人生の過程にある希死念慮者に就いては誠心誠意の念を以て諫止するのは人の持つ徳操の一つである。一旦、既遂してしまった者は、そのまま、死なせてあげること。既遂という一線を超えた者において、それはすべてのフェイズで手遅れとみた方がよい。

 死生観は多義的である。依って、この案文についてのコメントは受け付けない。

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