2012年5月27日 (日)

本村洋さんが叙述した[天網恢々疎にして漏らさず]の意味を大月(旧姓・福田)孝行死刑囚(31)は理解しようとせずしかも真摯に受け止めていないという二点を論拠として当該裁判における極刑の判決は極めて妥当なものであると理解するにいたった。心理学者のいう新証拠の発掘の当否も無意味で理解不能なら、大月死刑囚のいう事件への解明に向けた問いかけは単純に性的衝動だったに過ぎず、死んで償うことが唯一の贖罪であることを理解させる必要があるのだが、このひとには、終生、そういうことの道理がわからないのだろう…

光市母子殺害事件、弁護団が再審請求方針
読売新聞 5月26日(土)19時41分配信

 山口県光市の母子殺害事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われ、3月に死刑が確定した元会社員大月(旧姓・福田)孝行死刑囚(31)の弁護団は26日、東京都内で報告会を開き、10月にも広島高裁に裁判のやり直しを求める再審を請求する方針を明らかにした。

 報告によると、8月に弁護団会議を開き、請求時期など詳細を詰める予定。新証拠として、法医学者や心理学者の鑑定結果などを検討しているという。再審請求について、大月死刑囚は「事件が何だったのかを明らかにし、生きて償っていくことが本当の務めだ」と話しているという。 最終更新:5月26日(土)19時41分

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2012年5月26日 (土)

病んでからはじめて生の意味を考えるようになる

 柳田邦男氏曰く。[重い病気になるとそれまで順調だった人生行路を変更せざるをえなくなる。出世もあきらめなくてはならないし、仕事・仕事と言ってもいられなくなる。

 そんな時、目の前をよぎるのが「自分とは何なのか」・[自分は何のために生きてきたのか]・[自分が生きてきた人生に意義はあったのか]といった問いである。

 健康の時、無我夢中だった自分の生き方に就いて、病気になってからはじめて真剣にこれでよかったのだろうか、意味のある生き方とはどんなものなのだろうかと問うようになり、自分が誰でもない自分としての証をつかみたくなる]

  日頃から形而上学に馴染んでおくことの必要性を感じるような柳田氏の筆致の冴えである。また、形而上学を思惟しない人生は淋しいようにも思えた。

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2012年5月25日 (金)

一休宗純の無常感

「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」

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2012年5月24日 (木)

神保町はまたカレーライスの街でもある

 [キッチン南海]という屋号の食堂で提供するカツカレーの味と同店付近で営業している[エチオピア]のビーフカレーを比較するとどちらが美味しいか。また、キッチン南海ヒラメフライは一度は食べておきたいメニューである。

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2012年5月23日 (水)

神様の誕生-概念が先か存在が先か言葉が先か-

 現象としても実存としても概念としても存在しないものには名称を賦与することができない。これが存在の不思議なのである。

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2012年5月22日 (火)

屠殺場の女神.内澤旬子さんがおっしゃるのだからおそらくは間違いのないのだろう

 曰く   [畜魂碑を建てるという文化を持つ国は日本の他にはアジア圏にさえ存在しない。欧米人に畜霊碑の話をすると信じられないとばかりに笑われる。かわいそうだからを食べるなというくせに…]

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2012年5月21日 (月)

恐山の基本のき-観光ガイド的な叙述として-

 【日本三大霊場】・【日本三大霊地】・【日本三大霊山】、そのいずれにもランクイン・インしているのは恐山だけなので御座います。

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2012年5月20日 (日)

監獄医.加賀乙彦氏の誕生-無期囚と死刑囚の比較検討-

  昭和29年、精神科医として歴程を歩み出した加賀は、診察室でガンゼル症候群(刑務所に拘禁された囚人に観察される特有の反応)を示す殺人犯をはじめて診た。当時、日本の犯罪学の草分けであった東大医学部の精神科教室の吉益脩夫助教授が刑務所の研究をしていたこともあり、加賀は刑務所収監囚に就いてその興味をつのらしてゆき東京拘置所の医官の公募に応じた。

 加賀は、担当する患者の多くが、ゼロ番囚凶悪な犯罪を犯して死刑か無期の判決を受けることが想定される囚人たちのことをさし収容番号の末尾にゼロがつく囚人)が多いことに気づいた

 詳細に観察を続けた結果、次のことが解った。

① 未決の重罪被告人と死刑囚の2者は拘禁ノイローゼの態様が酷似しておりその病態は反応性の躁(気分がめまぐるしく変わり今、笑っていたかと思うと次の瞬間は泣きじゃくり鬱になる)であること。

 なお、古くから、罪人が処刑寸前の引き廻しの時に笑ったり唄ったりする様子を「引かれ者の小唄」と呼称していたがそれは死を前に故意的に平静を装おうのではなく反応性の躁であったことも識る。

 ② 他方、無期囚は拘禁ノイローゼが少なく抑うつ気分を主訴とするようになるが、やがて腰が低くなりペコペコとお辞儀をし、一見、愛想はよいのであるが質問すること以上に答えようとせず自由で生き生きとした感じはなくぼんやりとした子供のようになってしまうのである。

 人間は10年も刑務所に入っていると刑務所に慣れてしまう。無期囚の一番の敵は退屈なのだが、その退屈にも慣れてしまうのである。彼らは一つの鋳型にはまって安定してくる。感情を麻痺させ、無感動になり、刑務所の生活に適応するようになりこれをプリゾニゼーションと称する

 刑務所ボケになった囚人は看守に子供のように従順であることは先にも述べたが毎日の単調な生活にも退屈しなくなる。退屈ということを感じなくなるほど鈍感になる。無期囚はもともとそういう性格であったのではなく、未決囚だった時は反応性の躁を呈していたのだが無期懲役受刑者となってからは刑務所ボケを完成させてゆくのである。

 死刑囚は、常に「いつ殺されるか」という興奮状態にあるが、無期囚はまったく別の人間になってしまう。左に拠って、環境が人間を造るという結論が導きだされ、加賀は[日本に於ける死刑確定者と無期受刑者の犯罪学的、精神病理学的研究]という論文を書き医学博士となった。

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2012年5月19日 (土)

天衣無縫.自由闊達.変幻自在.融通無碍である古今亭志ん生の芸風

 楷書の藝人八代目桂文楽に対し、草書のひととして昭和の落語界に君臨した古今亭志ん生の芸風を伝える四字熟語は無数にあり、どれもがこの落語家の特質を見事に語りつくしている。

 落語には定本がないという鉄則がそのまま身についてしまった志ん生の語り口には、何をどう喋っても落語にしおおせてしまう魔力が潜んでいる。

 ときには、吉原の惣名主庄司甚平を平賀源内と言い違えるようなこともあったが、泰然自若たるものだった。「間違ってもなおしたりしちゃいけねえ、寄席は学校ぢゃねえんだから」が口癖だった。

昭和の藝人千夜一夜 矢野誠一著 文春新書に典拠

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2012年5月18日 (金)

歴史とは概ね個人的な欲望史のことである

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2012年5月17日 (木)

流しても流されても海は海…

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無と零とのあいだに相同的な斉一性は存在するのか

 ○ 寧ろ、存在という語彙を充当するところに一番大きな誤謬が存在する。さて、存在とはなんだろう。左の問いを建てるに就いて複数回に渉って[存在]という言葉を使用しているという撞着。存在は存在し存在するのか…

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2012年5月16日 (水)

幸福とは明日への希望である

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2012年5月15日 (火)

誰を担ぐかではなく何を担ごうという選択なのだ

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2012年5月14日 (月)

死ぬのが厭なら死ぬより他に死から逃れる方法は存在しない

  ゆえを以て死にたくないひとほど死を口にするのだ。

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2012年5月13日 (日)

書籍の名称

 山田風太郎エッセイ集成 人間万事嘘ばっかり 山田風太郎著 筑摩書房を読了した。一般に書籍のタイトルは著者が命名するのが普通である。

 ひとのことに就いて文学・医学・日記・死を徹して(とおして)観察してきた山田風太郎氏が自己のエッセイにそういうふうに命名したのだから人間万事嘘ばっかりなのであろう。

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2012年5月12日 (土)

[死よ驕るなかれ]というよりは寧ろ[医よ驕るなかれ]というほうが正鵠を射ぬいた言葉なのである

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2012年5月11日 (金)

死を前提としてぼくたちは生まれてきた

 おそらく生誕する前にそれを慶祝する神様から「生誕を授けるがいずれまたこちらの世界の戻ってくるのだよ」と諭されてぼくらは産声を上げたに違いがないのだ。

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2012年5月10日 (木)

病歴

 2月19日付で検査した胃カメラにおけるマクロ病理学的所見:逆流性食道炎・胃潰瘍・粘膜下腫瘤。要経過観察。6ヶ月後に再検査の由…

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2012年5月 9日 (水)

労働者における糞便の性状-生理学および社会学的な立場からの視座-

 自分の絶対的な存在や価値観の前にあって、労働は相対的な価値に過ぎないこと。それが、多分、労働の位相ということになるのではあるまいか。

 が、その比重というものが一般には、如何なる労働であれ加重なのである。また、労働なくして人生もまた存在しないことも所与の前提である。

 要するに、労働とは労働の垂れ流しであり思考を延長してゆくと要するに糞便を垂れ流すため労働を垂れ流していることに気づくのだ。食びを摂取するための労働でもあるが、それは結果的には排便するための労働といえる。

 賃金とは基本的には排便した糞便の量の差異に他ならない。労働などクソ喰らえという言説は生理学・社会学的にも正鵠を射ているのである。

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2012年5月 8日 (火)

養老孟司氏は解剖をしている過程で言葉の性質に気づいたと述懐しており

 曰く。[腸と胃と食道のあいだに線が引いているわけでもなくこれらはひとつに全部がつながっているので切りわけてゆく。この作業をしているうちに〈切る〉という作業は何だろうと考えるようになった。

 切るという作業をしているうちに、解剖とは言葉を基にした思考の産物だということに気づいたのである。言葉は体の様々な部位を分類する、換言すれば、言葉によって人体を切っている。解剖はまた現実でもある。故に言葉は現実を切るのである]

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2012年5月 7日 (月)

青春期の読書体験に就いて回想する柳田邦男氏の感傷に強い共感の念を感じる

 曰く [若き日の私の心に知の種がばらまかれた数々の瞬間の情景を思い浮かべると、私はあの内観体験で不思議な安定感を得た時に似て、自分はなんと多くの書物に支えられて生きてきたのかという謙虚な気持ちに包まれる。だから、豊富に本を並べた書店に入ると、自分の精神的成長の年輪を見るおもいがして、心の古里に帰った感覚さえ湧いてくるのだ]

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2012年5月 6日 (日)

〈ニッポンの未来はYeah ~Yeah ~Yeah ~Yeah ~世界がうらやむ♪♪♪~〉…とモーニング娘と称する複数の女の子たちが黄色い声を発し若い男性を蠱惑しながらラブマシーンという歌を唄っていた時代もあったなと懐かしく回想するときもくるだろう 

○ 日本の人口は1967年にははじめて1億人を超えた。2004年の1億2778万人をピークに人口減に転じて2100年には3662万人となり明治13年の水準に戻る。

○ 現時点で人口が減じているのはドイツとイタリアと日本の3国である。そのなかでも日本の減少率は顕著であり、20世紀において都市部では人口増を前提とした街造りをしてきたが21世紀は人口減を前提にしないと適確な街造りはできない。

○ 最近20年間での人口減少率をみると北海道の炭鉱地帯が多くその特殊性から一般化はできないが、非炭鉱地帯の高知県室戸市三重県尾鷲市などで大幅な人口減が始まっている。なお、減少率のトップは夕張市でこの20年間に56%の減である。

○ 高齢化率も深刻で、21世紀半ばまでには10人に4人までが高齢者、子供は10人に1人以下であり、街を歩いているとすれ違うひとの2人に1人は高齢者.子供とすれ違うのは非常に珍しいという現象がおきてくる。

○ 人口減少に先駆け、経済活動の一部は既に縮小にむかってる。1991年には675万事業所に対して2006年には591万に減少した。従業員数の同様の傾向をしめす。家計支出は2007年で278兆円が2030年には250兆円になると経産省は予測している。

○ 20世紀は増え続ける人口に見合った計画的開発が不十分であったため乱開発が発生したが今後は乱開発とは反対の乱縮小が起こる可能性が大きい。人口や産業の減少を前提にすることは勇気がいるが、しかし、そこを躊躇していると取り返しのつかない禍根を残すことになる。21世紀は20世紀とは発想を逆転させた街造りをする必要がある。

 【人口減少時代の街造り 21世紀=縮小型都市計画のすすめ 奈良女子大教授.中山 徹著 自治体研究社刊に典拠】

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2012年5月 5日 (土)

哲学性を懐胎している禅僧.南直哉師

 【恐山 死者のいる場所 -ひとは死んだらどこへゆく- 新潮新書】を読了した。著者である南さんは永年に渉り永平寺で禅や曹洞宗の修行を積み、現在は青森県の恐山で院代を担務している。

 当ブログで様々な僧侶を取り上げて記事にしてきたが、南さんほど怜悧で冷淡でいわゆる論壇において仲間を造らず孤高を託っている僧侶も少ない。まさに裂帛の気合いをその文章から感得できる。

 恐山は曹洞宗の傘下にある寺院であることから院代にと南さんが推挙され、そこで観て感じたことが南さんらしい高踏的な言葉で叙述されておりそこから多くのことを学ばせてもらった。

 南さんが体験する恐山での懊悩は、偏に仏教の常識が恐山ではまったく通用しない点に存在する。況んや、禅も曹洞宗も何も役には立たないという困惑から院代としての生活が始まるのである。

 恐山には直截な死の広漠がひろがっており存在するのは死者だけなのである。故に副題は[死者のいる場所]となっているのだ。その死者の存在様式において南さん一流の視点が本書でも煥発しており、その要諦は死者は生者を拘束するものであると表現しておきたい。

 南さんは信仰ではなくロジックを旨とする僧侶である。信仰を一瞥しながらも、禅を逞しくして死とは何かという問題に就いて思惟をすすめている。南さんは稀代の僧侶であると毎回のことながら感じるのだ。

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2012年5月 4日 (金)

理学博士.寺田寅彦という篤実なる佳人に就いて

 【寺田寅彦 小山慶太著 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学 中公新書】を読了した。嘗て、寺田寅彦随筆集の一部を読んで、その筆致と内容の豊饒さに唸りながらも現在その続刊を読むにいたっていないのは自分の勉強不足であると素直に反省しておく。

 寅彦の随筆はかなりのボリュームがあるとはいえその量の多寡は知れている。が、今は読書に充当する時間を充分に取れないため今後の読書生活における楽しみとしておくことにした。同様に岩波版のファーブル昆虫記に就いても老後の楽しみとして残しておく。こういう味わいのある書物は一気呵成に読むものではないのは当然のことわりなのである。

 著者の小山慶太さんも理学博士である。当書が得意とする物理学的な角度からの寅彦への眼差しは科学者でなくてはとらえられない視座であり、漱石との交遊等々の部位での記述が希薄なのは仕方があるまい。が、寅彦も科学者。おそらく文科出身のひとには確からしさの視点を有する本書の如き内容の文章は綴れないだろうと思えた。

 文科からとらえた寅彦評は星の数ほどに出版されているに違いない。その点で本書は極めて貴重な一冊といえる。なお、寅彦のようなひとと一緒に交遊を結びたいな…という想念がぼくの脳裏をかすめとおっていった。

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«枯れるようにして死んでいこう…